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生きにくい世の中で

私は社交的で外面が良いとよく言われる。

自分自身でも、自覚はあるし、外では誰にでも話しかけることができるし、相手に合わせることもできる。無理しているつもりはなく、自然とできるのだ。

しかし、友達が多いわけではない。むしろ、本当に自分のままでいられる友達は本当に少ない。でもそんな事は誰にもわかってもらえないので、ポジティブで社交的で明るい人間として生きている。

ただ、私はずっと苦しい。人間関係を構築するのは得意だけれど苦手だ。私はこの矛盾がなぜ起きるのかいまいち理解できずに、ずっと苦しかった。

なんでかはわからないけれど、心から一緒にいて楽しいと思える友達でも、離れてみると、私のことなんて考えていないんだろうな(多分本当に考えていないんだとおもう笑)とか、実際どう思われていたんだろうな、などと考えてしまう。

しかし、最近なんとなく自分の生きづらさについてわかってきたような気がするので、文章にして残したいと思う。

幼少期〜自信の喪失期

小さい時は、今よりも自己主張が激しく、自分の思ったことを言い過ぎてしまったりするような性格を持っていた。いじわるをされる側ではなくする側で、自分には何か素晴らしい才能があるんだと思っていた。

しかし、中高時代を経て自分の自信というものを失っていく。自分の自我の強さに気づき、なんて自分は最悪なやつなんだろうと思い始めてしまった。素晴らしい友人に恵まれたため、私は自分の価値がわからなくなった。すごく自分はゴミだなと思っていた時期もあった。

また、自分の容姿があまり可愛くないということにも気付いてしまい、しかしだからといってその現実を直視して自分磨きをしようとも思えなかった。

その時期は自分の顔写真を見るのが嫌だったので、スマホのカメラロールに全く私の顔写真が残っていない笑最近はマシになったのでちゃんと自分の写真もあるけどね

原因

正直まだ分析不足な部分が多いので、自分の幼少期の強い正確と今の生きることに対して苦しいと思っている自分がどれくらい違うのかがわかりきっていない。

しかし、明らかな原因は、両親から人と比べて評価をされてきたことだと考えている。

小さい時から色々な習い事をやっていたが、常に人と比べられてきた。テストは100点を取らないとダメだったし、80点では怒られた。

これらのことから、幼少期の私は、自信に満ち溢れていたから周りにキツく当たっていたのではなく、家に居場所がなかった、評価されなかったからこそ、外では強くなるしかなかったんじゃないかと思う。自信がない故に、プライドが高くなってしまっていたのだ。

本当に満たされていたら人にいじわるな事はしないんだろうな。


改めて友人関係について

まず、私が間違っていたのは、私は友達作りが得意だと思っていたことである。私が得意だったのは、

「初対面の人の顔色や雰囲気を伺い、うまく読み取り、合わせること」

であった。これは別に友達作りなんかではないね。

幼い頃から親の顔色を伺って生きてきたので、相手に合わせるのはすごく得意だし、そういう意味では対人関係はすごく得意だ。でもこれは、物事の優先順位の中で自分自身のランクを最低限まで下げている行為であった。

そして、他人に合わせて行動しているからこそ、別れた後には自分の中ですごく反省会をしてしまう。

私のこの時の表情大丈夫だったかな?変なこと言わなかったかな?嫌われたかな?そんな簡単には嫌わないよね、いやでもあの行動はちょっと良くなかったかも。相手はこういう感じの雰囲気だからあんまり突っ込まずに当たり障りのない話で攻めよう。

…みたいな!!!

私はなんの営業をしてるんだ!!!!w



私と同じような生き辛さを抱えている人は世の中にたくさんいるのではないかと思う。

幼い頃とは性格が全く変わったようにも思えるが、幼い頃はとにかく自分を反応的に防御していたのだろう。そして成長してから、その守り方ではいけないと思い、自分を傷つけるのが1番マシだと思ってしまったのだ。

初対面の人に合わせようと考えて全く喋らなくなってしまったり輪に入らなくなってしまう人もいる。でも、その場ではうまく合わせることができて、周りからも社交的だと思われているが、実は自分をものすごく消費しているというパターンもある。

自己肯定感の問題はとても根深いのではないかと思う。一見自己肯定感が高そうな人でも、実際はとても自己肯定感が低く、それゆえに傲慢な態度を取ってしまっていたり、周りを傷つけてしまっていたりする。

自己肯定感が低いからこそ、みんながみんな内向的になるとは限らないのだ。自己肯定感の高さは、きっとその人の性格によって、色々な形で現れているのだろう。

対処法?

私のような生き方をしている人がもしもこの記事を読んでくださっていたら、まずは私も一緒だよ、と言いたい。誰もが心のどこかに弱さを抱えている。それをうまく表現できる人もいれば、うまく隠すことができる人もいる。

うまく隠すことができる人は、誰かに気づいて欲しいと思いながらも、それができず、苦しい。すごくわかる。

だからこそ、少しでも力になりたいので、私のやったことを少しだけお伝えしたいと思う。

受け入れる

ぶっちゃけこれしかない。私もまだできてはいないと思うけれど、ただ自己否定をする前に、一旦立ち止まってみよう。

私は大好きな親友がいるが、その子と一緒にいるとすごく惨めに感じてしまいそんな自分が死ぬほど嫌だった。でも大好きな友達だから受け入れられなかった。

しかし、もう一緒にいて苦しいと思っている事は事実だから、もう受け入れるしかない。

まずは、なぜ苦しいのかを冷静に見つめ直し、分析してみた。こればっかりは人によって全く違うところに根本的な理由があると思うので、これ以上のお手伝いはできないのだけれど、やはり、現状を受け入れるしかないのだ。

私の場合、この苦しみを全く理解できない彼女といるのが苦しかった。彼女は、あまりにもまっすぐで、自己肯定感の無さゆえの捻くれを持っていない。なので、全く理解ができない。だからこそ、小さい言葉でも間接的に批判されているような気がしてしまうことが多かった。

そして、私は彼女が大好きだったし彼女も私のことを好きでいてくれた。なのに、一緒にいるのが辛いと思ってしまうなんて、なんで自分は最低なんだろうと思っていた。彼女が私のことを肯定してくれるたびに、嬉しい反面、責められているような気がしていたのだ。

それに気づいた今は、もう仕方ないのかなと思い始めている。仕方ない、そう割り切ることも大切かもしれない。そして、好きでいてくれるのに辛いと思ってしまう自分最低、と思うより前に、私は彼女に、そして自分自身にとても傷つけられていたんだな、と現実を見ることができた。

まとめ

この記事は勢いで書いているのと、まだ分析しきれていない部分もあるので、結論がきちんと定まっていないといえる。しかし、今のこの中途半端な自己分析も、あるがままの自分だと思ったので文章にした。

みんな多かれ少なかれ弱さを抱えている。その弱さをどう対処するかも一人一人違うだろう。けれど、相手がキラキラ光っているように見えるからといって、それをその人の全てだとは思ってはいけないんだと思う。

あなたが、他の人を羨ましい嫉妬してしまう、と思っているのと同じように、あなたのことを思っている人がいるかもしれない。それを忘れてはいけないなと思った。

みんなが自分を認めて生きることができるような世界になるといいな。



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