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伴田良輔監督『森へ island』を見る

先日は伴田良輔監督『森へ island』を見に行った。
素晴らしい映画だった。

冒頭、ヤカンをもった男性(=伴田さん)が水を汲む。森のあらゆる場所に流れたりとどまったりしている水は、なんとなく「記憶」に結びついているように感じられる。それをヤカンに汲むと、ヤカンが少し重くなる。歩みに沿って揺れていたこの丸いオブジェの重心が変わる。音も変わる。
草木の匂いが漂うなか、初めはマン・レイの映画にも似た雰囲気で光をとおしたりごろんと身を投げだしたりしていたオブジェたちが、だんだんと語りはじめる。はじめはひそひそ声だったのが、少しずつ存在感を増していく。ヤカンの傷の饒舌さ、チェロの孔と光のたわむれ、そうした人間以外のモノたちをクローズアップした世界によって、だんだんと人間の時間感覚がほぐされていく。
更に、ジョウビタキのジョビちゃんが羽を楽器のように鳴らしながら飛ぶ。ジョビちゃんのリズムはモノのリズムとも植物のリズムとも違う。植物が揺れる。その植物たちも、ただ身を揺らしているのではなく、風と睦みあっている。植物の揺れる形は、風の形でもあるのだ。

こうした人間なしの宇宙の磁場は、ユクスキュルのいう「環世界」を思わせもするが、それよりも水やオブジェや動植物たちそれぞれの生をさらに超越した映画全体の地平には、人間たちが普段の暮らしのなかで思う「生」よりも、ずっと大らかで恐ろしい「生=死」が息づいている。

映画には、人間も出てくる。「母親」を演じる最上和子さんの佇まいと所作は、静かで抑制されたなかにある種の烈しさが垣間見える。
また死を一身に引き受けているような金景雲氏の舞踏も素晴らしい。金さんの舞は「double」で見て以来私にとってはこの世で最も恐ろしいものなのだが、今回はその聖なる恐ろしさが、森を背景にすることによって更に鮮烈に暴かれているようだ。周囲に伸びた草木も、どうやらこの舞踏の磁場を知っているように見える。というよりも、人間より植物たちのほうがよほどこの磁場に身を浸して生きているような気がする。こうして植物たちは舞踏と共鳴し、土地全体に「生=死」の震えが起こる。

更に、伴田さんが路上でスカウトしたというペレさんのチェロの音色は、聴いている方も自分の身体のなかにある虚に音が響くような気にさせられる。

物語の輪郭は緩やかなもので、解釈はある程度自由にひらかれている。それでも最上さんとペレさんのつくる空間の緊張、空を飛ぶ黒い飛行機のなかに、戦争の気配が重く立ち込めている。普段の人間の認識を超えた「生=死」の大きく透明な懐のなかで、どこまでも人間のあいだだけで交わされる殺戮の応酬が居心地悪く、なにか悪性腫瘍のようにこわばった、硬質な感じをさせている。しかし「生=死」は、それさえも静かに包み込んで流れている。

途中、くるくると回転する木の幹をあらゆる角度から写した場面がある。木の相貌がなまなましく、その上やけにエロティックで、明らかに人間が思う樹のようすとは違っている。というより、木をきちんと見たことのある人はほとんどいないのではないか。
最後の場面では、ガラクタのような無機物と森に囲まれて静かに座る最上さんの姿に、この木にどこか似た美しさを見た。生とは死の手触りを感じながら呼吸している状態のことをいうのだろう。沈黙の内に、沈黙としてしか聴きとれない濤声がある。

以下は個人的なことだが……
昔から身体のなかに、生と一致してしまう大きな死というものがあって、人として生きていくうえではそいつが非常に邪魔だった。たとえば自分とこの身体とが一致しない、着ぐるみのように身体を着ている感じ、名前を呼ばれてもそれを自分のことと受け入れるまでに時間がかかる、いま自分の身体がここに「ある」こと自体の生々しい気持ち悪さ、自分とされているものの後頭部を見ながら過ごす幽体離脱状態、こうした日常的な厄介事も、生と一致してしまう死という土壌から生えてきたものらということになるだろう。多分、生きている以上多くの人がこれを感じたことがあるだろうし、とりわけ病気をしているときなどは、自分の身体がいかに自分のものではないか/同時にいかに痛ましいほど自分のものであるのかを実感することだろう。
私の場合、特別身体をこわしているわけでなくてもこれが常に無視できず、自分の身体があることが許せない(許せないとしか言いようがない)ということもよくあって、それでも同時にこの明るくも暗くも熱くも冷たくもあるものが恍惚としか言いようがないこともあって、いつこれに打ちのめされるかというところまで来ていた。

ところが最上さんの舞踏やその舞踏観に出会って、彼女の向き合っているものはまさにこの生と一致する大らかで恐ろしい死なのではないかと感じ、その時からこの恐怖を芸術として昇華する試みに惹かれつづけている。死から逃げるのではなく、個人的な感情によって壮麗に飾り立てるのでもなく、身を任せて淡々と向き合うという試みだ。
そして今回の伴田良輔さんの映画にも、共通する水脈を感じた。今回の映画の場合は、舞踏という身ひとつの表現とは異なり、タイトルにもなっている「森」の抱える生=死の気配や、チェロの駒たちのようなある種の付喪神・妖怪的生命、そして動物たち……といった広がりがある。それによって新たな角度から吹き込まれる風もあった。
こんな映画が日本で見られるというのは、とても贅沢なことだと思う。

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