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友敵理論を濫用してはいけない(自戒)

時代がカール・シュミットを呼んでいる。シュミットの中でも特に名高いのが『政治的なものの概念』であり、「特殊政治的な区別とは、友と敵の区別である」という衝撃的な一句でも知られる。

ただしご存じのように友敵理論は経験的事実(事例)に突っ込もうとすると意外と困る理論でもある。当然だが、地方自治レベルの政治だと友敵理論はうまく適用できない。あまりに極端すぎるのである。この理論がうまく適用できそうなのは国際政治の場面であろう。それくらいスケールのでかい理論なのである。

残念ながら友敵理論の濫用というべき言説もあるにはある。上のエッセイがその例である(小峰ひずみさん、ごめんなさい)。

このエッセイの内容は一言で言えば「男同士の闘いは公敵関係であるがゆえに美しく、フェミニスト(?)の闘いは私的領域に踏み込むがゆえに私敵関係となるため、醜い」というものである。
私は「男同士の闘いだって醜いのだ!」と言いたいのではない。カール・シュミット先輩はそんなこと言っていない、小峰さんの誤読でっせ、と言いたいのである。

『政治的なものの概念』によれば政治的な対立、すなわち友と敵の区別については、相手が醜いか美しいか等は関係ない。

友と敵の区別は、結合ないし分離、連合ないし離反の、もっとも強度なばあいをあらわすという意味をもち、上記道徳的、美的、経済的その他のあらゆる区別が、それと同時に適用されなければならない、などということなしに、理論的にも実践的にも存立しうるのである。
『政治的なものの概念』p15 未來社

次の節はもっと直球で書いてある。

政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない、経済上の競争者として登場するとはかぎらず、敵と取引するのが有利だと思われることさえ、おそらくはありうる。敵とは、他者・異質者にほかならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質者ということだけで足りる。
『政治的なものの概念』pp15~16 未來社

「政治上の敵が美的に醜悪である必要はない」と書いてあるじゃーん。
なので、この時点で「男同士の闘争は公敵関係にあるので美しい」というのは怪しくなる。そもそもの政治上の敵対関係にあることと(友と敵の区別)、美醜は関係ないと言っているのだから。

エッセイでは「公敵」という言葉も使用されているが、この「公敵」とは一言で言えば「国家の敵」である。国民の敵を定めるのは国家であり、国家の敵は国民の敵である。ゆえに「公敵」である。

敵には、公的な敵しかいない。なぜなら、このような人間の総体に、とくに全国民に関係するものはすべて、公的になるからである。
『政治的なものの概念』p19 未來社

私仇は私敵に過ぎず公敵ではないため政治上の敵にはなりえない、と『政治的なものの概念』では言っているだけであり、私敵関係にある闘争は美しくないとは一言も書いていないし、何より美醜は関係がない。

よって友敵理論を用いて「男性同士の闘争は美しい」と主張するのは、明らかに無理がある。なぜならシュミット先輩はそんなこと言ってないからである。「男同士の闘い」が美しく見える理由は、もっと別のところにあると言わざるを得ない。あえて言うとすれば「美しく見える闘争はゲームである」ということになろうか。ゲームという語には二重の意味がある。一つは枠づけ(ルール)があること、もう一つは所詮遊びという意味である。
絶対的な敵対関係の戦争は枠づけがない。それゆえ熾烈化し敵は道徳的にも貶められる。

一応ヒントになりそうなことは『パルチザンの理論』に書いてあるのだが、おそらく小峰さんは参照していないと思われる。よって割愛したい。

最後に

そもそもツイッター上の対立に友敵理論を持ち込むのがよくないとも言える。「闘争の現実的可能性」が生じることで初めて友敵関係が生まれるのだから、ツイッター上だけで罵倒しあっているだけでは、現実的可能性は生まれそうにない。ひどい言い方をすればツイッターでいくら意見の一致が生まれようとも、それは公論(世論)にはならないのである。シュミット先輩ならば、気晴らし以上の意味を見出すことはないであろう。

参考文献
『政治的なものの概念』
『パルチザンの理論』



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