家族賃金思想と男性稼ぎ主モデル

0はじめに
 終身雇用や年功賃金などの雇用慣行を支えたきた思想として「家族賃金思想」がある。本稿では、家族賃金思想は以下のような定義に基づく。

 家族賃金思想とは、成人男性労働者の賃金は妻子あるいは家族を養うに足るものでなければならないという考えを意味する。この思想が現実に成立するためには、男性労働者が家族を養うに足る賃金を得られるほど賃金が高いものでなければならない。そうでなければ妻が生活のために働く必要がある 。

  大内章子「日本の「家族対策」」『三田商学研究第45巻第5号』慶應義塾大学商学部 2002 p143より引用

 今回は1946年の「電産方賃金体系」と1974年の「生涯生活プラン」を取り上げる。どちらも設計思想として家族賃金思想の影響を受けてはいる。ただ1974年の「生涯生活プラン」の方が、家族賃金思想がより強く反映されていると思われる。家族賃金思想は賃労働をするのは男性を想定している。
 本稿では「家族賃金思想は労働者の私生活に介入する」という観点のもと、1946年の「電産方賃金体系」と1974年の「生涯生活プラン」の比較を行う。両者を比較することで、「家族賃金思想が賃金体系により深く反映されるほど、企業の社員に対する私生活の介入も深まるのではないか」ということを示したい。

1電産型賃金体系と家族手当
 家族手当は戦前日本においても存在してはいたが、炭鉱などの一部の産業に留まっていた。家族手当が全国的に支給されるようになったのは、1946年の電算方賃金体系実施後のことである。
事の発端は、1946年10月から12月の2ヶ月にかけて「電産10月闘争」が発生したことによる。最終的には中央労働局の仲介が入り、電産10月闘争は日本電気産業労働組合協議会(以下電産)の全面勝利に終わり、電産側の要求がほとんど認められるに至ったとされる。電産が会社側に求めた基本条件は以下のようなものである。


1拘束八時間労働制の確立。日曜祭日以外の年20日以上の休暇付与。女子生理休暇付与
2生活費を基準とする最低賃金の加給、特殊地域生活者に地域的賃金の加給
3能力、勤続年数、勤怠に応じた増加賃金
4超過労働、特殊労働、特殊勤務に応じた増加賃金
5資格、階級、学歴、性別による賃金不平等の是正
6作業安全の保障、保健施設の改善
7老齢などの労働能力喪失減退に対する生活保障 

法政大学 大原社会問題研究所編『日本労働運動資料集成Ⅰ1945~1946』旬報社 2005 p466より作成


 この中で特に重要となるのは条件2と条件3である。「(家族を含む)生活費を基準とする最低賃金」は明らかに家族手当に該当するものであるし、条件3の「勤続年数に応じた増加賃金」は現在の年功序列賃金と思想を同じくするものである。「勤続者の生活保証」を特徴とする「電産型賃金体系」の構成は以下のようなものである。

加藤尚文『事例を中心とした戦後の賃金』技報社 1967より作成 一部省略

 生活保証給が全体の63.2%を占めている。さらに63.2%に内、18.9%が家族給、本人給が44.3%である。「勤労者の生活保証」を特徴とする電産型賃金体系は、後に国鉄や私鉄、鉄鋼業などの有力産業にも導入された。
では1946年に電産が要求した家族給、本人給の具体的な内実はどのようなものだろうか。以下の通りである。

家族給:家族の人数に応じて賃金が増額される。扶養家族の最初の一人は200  円、二人以上の場合は一人につき150円支給
本人給:基本給500円。18歳~30歳は1歳につき30円増額。31歳以降は1歳につ き20円増額

同前 p485より作成

よって上の算出方法に従うと「年齢30歳。25歳入社、家族二人」の労働者の場合、賃金は以下のように計算される。

       右による賃金算出一例
  年齢三〇歳、家族二名、二五歳入社
   本人給 八九〇円
   家族給 三五〇円
   能力給 二六〇円
   勤続給 〇円
   合計  一五〇〇円

同前pp481~482より引用

 1500円の内、890円が勤労者本人の年齢によって決定され、350円が勤労者の家族数により決定される。合計1240円が勤続者本人の属性と家族数により自動的に決定される。基本的に勤労者の賃金は増えることはあっても、減ることはないと言える。なぜなら「仕事の能力」と違い年齢と世帯人数は言い争いの余地がほぼないからである。
 電産型賃金と男性稼ぎ主モデルとの関連を見るうえで考えたいのは、上の賃金算出例にある「年齢三〇歳、家族二名、二五歳入社」した勤労者は一体誰なのか?という問題である。勤労者は男性であるのか、女性であるのか。
 もちろん「想定されていたのは男性であった」と言うことも可能である。つまりは「電産型賃金も、家族を養えるだけの賃金を受け取れるのは実は男性だけであり、男女の性別役割分業が賃金体系のなかに組み込まれていたのではないか」と推測することもできる。ただし電産10月闘争に関わった勤労者が、性別分業まで考慮していたかというと、それは非常に考えづらい。
 そもそも電産が会社側に求めたのは「喰えるだけの賃金」である 。勤労者とその家族が飢えないだけの賃金を要求した。資料には明確な記述は見られないものの、「男女で役割を分ける」というような性別役割分業にまでは考えが至っていないと思われる。
 しかし1960年以後は家族手当の支給に関しても、男性稼ぎ主モデルが前提となることとなる。男性勤続者、すなわち男性会社員が歩むと予想される「人生」を予め想定し、それに応じて賃金が決定されることになる。それは企業が勤続者の私生活にも強力に介入することでもあった 。

2鐵鋼労連の「生涯生活プラン」と家族賃金思想
 1973年にオイルショックが発生するまで、春闘の賃上げの発想は「生産性向上の利潤増加を、賃上げに回すべき」というものであった。春闘の変遷について久米郁男は次のように述べる。

 戦後混乱期(40年代後半)においては、生産性上昇を賃金上昇が大きく上回っていた。このパターンは高度経済成長準備期(50年代)には逆転し、生産性上昇が賃金上昇を超えることになった。生産性上昇による利潤増が、相対的には資本蓄積、投資へと回されていたと考えられる。それが、高度経済成長期に入ると前述したように、生産性向上と賃金上昇がバランスすることになる。そして、高度経済成長後期になると、賃金上昇が生産性上昇を超えるにいたった。また、1960年代後半には、賃金格差の縮小が見られる 。

久米郁男『日本型労使関係の成功』有斐閣 1998 p101より引用

 しかしオイルショック発生後だと「生産性向上の利潤増加を、賃上げに回すべき」というロジックは適用できなくなった。所謂「減量経営」がなされ、過剰設備の整理、金融費用の節減、過剰雇用の転換を企業は行ったとされる。このような状況の中、組合側は新しい賃上げのための新しいロジックを樹立する必要があったと思われる。
 1974年に鐵鋼労連が「第二期賃金政策」のなかで発表した、「生涯生活ビジョン運動」は賃上げのための新しいロジックを生み出したものとして評価できると筆者は考える。「生涯生活ビジョン」について鉄鋼労連は次のように述べる。

 第二期[1974年]では、今後の成長鈍化のもとでも少なくとも八〇年頃までに実現をはかるべき「より充実し、安定した生涯生活」の具体的内容を、ライフ・サイクルにもとづいて計量的にえがきだし(これを「生涯生活ビジョン」と呼ぶ)、それの実現のために企業内労働条件と社会的生活条件の両面で何がかちとられるべきかを明らかにして、それらすべての達成に向けて総合的生活闘争各領域の闘いを系統的にすすめていく方向をとります。われわれは、これを「生涯生活ビジョン」と呼び、第二期賃金政策の中心的な柱にすえていきます 。
 

  日本鉄鋼産業労働組合連合会『鉄鋼労働運動史』1981 p662より引用 []内は筆者による

 下線部の「計量的にえがきだし」という点が非常に重要である。労働者の年齢ごとに「予想されるであろう生活」を想定し、それに応じて必要とされる出費を計算している。まず鉄鋼労連は鉄鋼業界の社員が歩む人生を以下のように規定した。

18歳 入社          35歳 学費の出費が増加
19歳 マイカー購入      36歳 マンション一室購入 4LDK
22歳 海外旅行        45歳 長男独立
25歳 結婚          52歳 長男長女が結婚。昇給が停止
27歳 長男誕生        60歳 定年退職
30歳 長女誕生

 以上鉄鋼労連が想定する労働者のライフ・サイクルである。では上の表のような人生を歩むのは誰であったか。これは明確で、男性正社員である。鉄鋼労連は「標準労働者」という概念を使用しているが、標準労働者とは「高卒直後に入社した勤続年数12~13年前後の、基幹職種に従事する男子熟練労働者 」のことを指す(「第一期賃金政策」日本鉄鋼産業労働連合会『鐵鋼労連運動史』1981 p656)。

 さらに以下の8項目を定め、「必要生計費」を算出している。


私的生活ビジョンの項目
1食生活 2住居 3保有されるべき耐久消費財 4衣生活 5教育と教養 6余暇生活7老後生活 8その他の消費生活

 8項目についての詳述の全てを掲載することはできない。ただ正社員とその家族の私生活、さらには子どもの進路にまで言及がある。例えば男性正社員には4回の引越しが想定されている。なぜなら結婚や出産による世帯人数の増加により、世帯人数にあった住居に引越す必要があるからだ。1~8の項目を全て計算した上で「必要生計費」が算出される。18歳入社で必要生計費が134577円、25歳になると結婚により増額され222297円、ピークが43歳で347053円となる 。男性正社員が43歳の時、生計費が最も高いのは「教育費と住宅ローンの返済額」がかさむと考えられるからである。ただし上の必要生計費は、最低限でしかなく「社宅や持家に対する補助など企業内付加給付を一切捨象した 」賃金である。
 以上、鉄鋼労連の「生涯生活ビジョン」について概観した。では「生涯生活プラン」で労連が生み出した「賃上げのためのロジック」とは何か。それは「社員とその家族が歩むと予想される人生を予め規定し、予想される出費の増加に応じて賃上げを要求する」というものである。

3「電産型賃金体系」と「生涯生活プラン」の比較(まとめ)
 電産型賃金が想定した労働者とその家族の様態は以下の通りである。

1946 電産型賃金 1労働者本人の年齢 2家族の人数

この2つのみで、労働者が男性か、女性かについては言及がない。目的は「勤労者とその家族が飢えないだけの賃金」であった。
一方、鉄鋼労連の「生涯生活プラン」が想定した、労働者とその家族の様態は以下の通りである。

1974「生涯生活プラン」
1家族全員の食生活 2住居(定年までに引越しが4回)3保有されるべき耐久消費財4衣生活 5教育と教養(子ども2人が大学に行くことを想定)6余暇生活7老後生活 8その他の消費生活

 また労働者とは男性である、とはっきりと言及されている。電産型賃金と比べれば想定が詳細になっている。また住居、衣生活、子どもの進路など、本来であれば私的領域と考えられる箇所にまで想定が及んでいる。目的に関してはほぼ記述はない。しかし以下のように言うことができる。その目的は「男性労働者が18歳で入社し、25歳で結婚し、子どもを2人設けて、その子どもが最低でも高校を卒業できる。さらには世帯人数に応じた住居に住むことができ、老後も年金で充分暮らしていけるだけの賃金」である。
「生涯生活プラン」は、1973年以降の全国的な不況下においても賃上げを何とかして維持しようとして生まれたものである。「企業は、男性社員とその家族の、より充実し安定した生涯生活を推進するために、賃上げを行うべき」という一斉賃上げの正当化の試みは、最終的には成功する。「生涯生活プラン」により、大手鉄鋼会社の世帯持ち労働者の持ち家比率が10ポイント上昇したほか、子女の教育支援、遺族遺児年金制度が充実した、と鉄鋼労連は結論している。しかし、その代償として労働者側がみずから、男性社員の人生を規定してしまった、と言うことができよう。

4補論 家族賃金思想と男性性
 家族賃金思想は、当然のことながら「男性は外で稼ぎ、女性は家で家事」という性別分業を根拠付けるイデオロギーであり、本レポートで取り上げた「生涯生活プラン」は性別分業を制度的に支えようというものである。「生涯生活プラン」は男性正社員の妻が働きに出ることを想定していない。むしろ「賃労働をしていない妻」は賃上げを行う強力な根拠の1つとなる。また男性性に対しても大きな影響を及ぼしていたと考えられる。「家族を養えるだけの賃金を稼げる男性」が男らしいのであれば、「生涯生活プラン」は男らしさを制度的に保障するものであったと言うことができる。ただしこれは、終身雇用や年功賃金の弱体化が、旧来の男性性の危機を招く、ということを示唆するものでもある。
(以上5469字 脚注除く)

参考文献
大内章子「日本の「家族対策」」『三田商学研究第45巻第5号』慶應義塾大学商学部 2002
加藤尚文『事例を中心とした戦後の賃金』技報社 1967
河西宏祐『電産型賃金の世界』早稲田大学出版部 1999
木本喜美子『家族・ジェンダー・企業社会』ミネルヴァ書房 1995
久米郁男『日本型労使関係の成功』有斐閣 1998
櫻井義秀・飯田俊郎・西浦功 編著『アンビシャス社会学』北海道大学出版 会 2014
新日本製鐵労働組合連合会『新日鐵労働運動史Ⅰ』1982
法政大学 大原社会問題研究所編『日本労働運動資料集成Ⅰ1945~1946』旬報社 2005
日本鉄鋼産業労働組合連合会『鉄鋼労働運動史』1981

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