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止まったままの時

前のつづき

前回のあらすじ:初回と2度目の無職時代は、何もかもが正反対。

前回の通り、今にして思えば1度目の無職の時は、いつまでも時間が止まってたように思う。
仕事を辞めた当時のまんま、自分の時間が止まったまま。
そういう時ほど人は、周りと比較して自己評価を下すのでしょうね。
他のみんなはこうなのに・・・って。

そうやって止まってしまうってのにも、何かしら理由があるんだと思いますが。
私の場合、こんな自分のまま生きていくのは無理、嫌だと思う気持ちが強く。
うまく言葉にできないけれど、あの当時の苦しい自分のままで先へと進むのを拒んでいたのかも。

だって、当時職場で受けた衝撃から全然立ち直れてなかったからね。
肉体はそこを離れても、私の気持ちは未だずっとそこにあった。
そういう意味で、止まったままだった。
(当時の衝撃→「あなたはなぜ職無しに?私は…」

悔しさとか、悲しみとか。
そういうのをちゃんと受け入れられればよかったんだけど、それをすることに死ぬほど抵抗があって、受けた傷を見ないようにしてたんです。
(もう10年くらい前のことだからこうして書けますけど、当時は思い出すことさえ無理だったから。私、結構重症だったんですよ笑)

どんなに頭で見ないフリをしても、ハートは正直すぎた。
そんなボロボロな状態のハートのままで、じゃあ前向きに未来に向かっていこうだなんて、ちょっと無理でしたね。

私は当時、その傷を見ることも、未来へと進んでいくことも、拒否していたんだね。。

思春期時代、生きていくにはどこか「強さ」をまとう必要があった。
そうでないと、学校という社会の中で一人で生きていくことはできなかった。
寂しい、孤独、不安に勝つためには、自分の中の「弱さ」を無視するしかなくて。
そうして、表面上だけでも強さを身に着ける必要があったのだ。
そうすることで、次第に己の中の「弱さ」は無い物として扱われ、鉄壁の心ができた。

不都合なことは、なかったことにした。悪口を聞いても、聞こえなかったフリ。傷ついてないフリ。
ただ、本心を覗くことが怖かっただけ。敏感なだけにね。
そうやって育ってしまったんです。

それを正しいことだと信じて疑わなかった。
だって、そうしたら自分はネガティブな気持ちにならなくて済むから。そうやって自己をコントロールすることが正しいと。思っていたのですがね。

でも中身の詰まっていないソレは、ちょっとしたことで簡単に折れるし、
元々の性格もあるけど人を頼ることができなくなってた。
頼るって、自分の弱さを正面から見つめることでもありますから。でも、弱さなんて、誰にでもあって当然なんですよ?

誰しもが自分の中に確実にある弱さを認められなくなれば、本当の自分を見ることはできなくなる。
自分にとって都合のいい部分だけを自分だと認識しては、それはやはり本当の自分ではない。
そうして人は、自分を生きられなくなる。

まとう強さ、自分の本音は仕舞い込まれ、弱さ・らしさを排除して。
・・・一体、私は誰を生きてきたんだろう?

流れゆく思考、本音をひたすら書き出して行く、声に出していったのは、これまでずっと閉じ込めてたものを出すためにも必要なプロセスだった。
そこには、自分がこれまで否定してきた「自分」そのものがあったから。

止まったままの時間。
何も進んでない自分。

でも、そんな一見進んでない時間の中でも、自分はちょっとずつ、これまで捨ててった「不都合な自分」を拾い上げて行った。

自分は何もできてない。
生産的なことは、何も。

それを自分が肯定してしまえば、そうやって拾い上げて行った自分を、自分で否定するみたい。
当時、世話になった方と喫茶店で話をしてた時、それに気付いて途中で言葉が止まった。
何気なく口にする言葉や嘘に、とてつもない自己否定が含まれていたことに、ようやく気が付いたのだ。

止まっているのは、何かしらの理由があるんじゃないですか?
自分が前に進もうとする時、それを妨げてるのって、なんなんでしょうね。
ハートは、何に囚われているのか?

というわけで、一時的に無敵メンタルを手にしていた元無職は、単なる弱気で臆病な人間で。
それ以前は、弱さすら見れない本物の弱い人間だったということを振り返る話でした。




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