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柔道王小川直也が見たオグリキャップのラストラン 1990年の有馬記念

平成二年の有馬記念 オグリキャップのラストラン

今年も有馬記念の季節が来た。

競馬の中でもこのレースだけは格別で、スポーツ紙も年末のこの一週間は一面が有馬記念の話題で各紙埋め尽くされる。
なんといってもその売上額はダービーを凌ぐというのだから、日本人がいかに有馬記念を好きかということがわかる。

今から22年前の有馬記念。
1990年つまりは平成2年12月23日は、日本競馬最高の日だという。
オグリキャップのラストラン
そう、オグリが奇跡の勝利を挙げた日だ。


オグリキャップがなぜスターホースになったのか。往時を知らない私にはそれをはっきりと言い当てることはできない。
とにかく、観るものを惹きつける馬だった。


地方競馬の笠松競馬から中央入りし、破竹の勢いで勝利を重ねた。
そのストーリーは劇的で、オーナーの交代、過酷なローテーションの中で幾度も寸前のところで勝利を取り逃がすこともあった。
ライバルにも恵まれ、イナリワン、スーパークリークとの対決は人々の耳目を集め「平成三強」と称された。
その直向きな走りに日本中が夢中になり、オグリブームといわれる社会現象にまでなり、普段競馬を見たことがない若い女性までもがオグリキャップのぬいぐるみを抱えて競馬場に詰めかける、ということさえ起こった。

現在からでは信じられないような状況である。

しかし、そんなオグリキャップも6歳(旧馬齢表記)の秋になり、競走生活の終わりが見え始めていた。
天皇賞(秋)6着、ジャパンカップ11着とそれまでファンに見せることのなかった惨敗を喫した。

「もう、オグリキャップは終わった。」

誰もがそう思っていた。

有馬記念に出走しても、勝負に絡むことさえできないだろう。
それがほとんどの競馬ファンの見方だった。

そんな中で、若き天才武豊がオグリキャップのラストランの鞍上に選ばれた。
武豊はそれまで一度だけ、この年の安田記念でオグリキャップに跨り、見事勝利を果たしている。
スターへの階段を駆け上がろうとしていた武豊が、オグリキャップの背に乗る。そのニュースは、オグリ復活への、奇跡への前触れなのではないかという期待をファンに抱かせた。

オグリキャップは単勝5.5倍の4番人気。
しかし、オグリの応援にと単勝だけを勝ったファンも数多く、誰もがオグリキャップの勝利を願いながら、しかしそんなことはありえないと思っていた。
1番人気はこの年菊花賞2着のホワイトストーン。さらにメジロアルダン、メジロライアンが続いた。

実際の人気については、当時の馬柱を『日刊競馬』紙が公開している。

6人の記者のうち、オグリキャップに印を振ったのは半数の3人。
それも、単穴(▲)がひとり、連下(△)がふたりという内訳である。
いかにオグリキャップへの実際の期待度は低かったのかが窺える。

オグリキャップ奇跡の復活 大川和彦アナの名実況



しかし、競馬ファンならば誰もが知っているように、オグリは勝った。

スタートを切って好位につけ、2周目の向こう正面で徐々に押し上げていき、直線入り口で力強く抜け出すと、迫りくるメジロライアンやホワイトストーンを振り切って一着でゴール板を駆け抜けた。


リアルタイムでオグリキャップを見知っていたわけではない私も、なぜかあの映像を見ると泣いてしまう。

「オグリ1着!オグリ1着!」

フジテレビの大川和彦アナウンサーの、張り詰めたような実況もいい。
大川アナは「オグリ1着!」と五回繰り返した。
まるで目の前で起きた信じられない出来事を、事実を連呼することによって自分に言い聞かせるようだ。

「見事に、引退レース、引退の花道を飾りました!」
「スーパーホースです! オグリキャップです!」

スタンドから沸き起こった地鳴りのような18万の「オグリ」コールに応え、オグリキャップと武豊はコースをもう一周し、スタンドの前へと戻りウイニングランを飾った。
誰もが涙し、叫び、オグリキャップが起こした奇跡に酔いしれていた。


JRA職員、小川直也の有馬記念


ここ数年のうちに私が知ったのは、あの有馬記念を柔道家・プロレスラー小川直也が現地で見ていたという事実である。
このことについては、2017年12月15日発売の『スポーツ グラフィック ナンバー』第38巻第1号に記載がある。


明治大学を卒業した小川直也は、当時JRA(中央競馬会)保安企画課に所属し、実業団の柔道選手として活躍していた。
競馬と柔道に何のつながりがあるのか、と思われるかもしれないが、これまでJRAは柔道選手を何人も輩出しており、その中には小川のほかにも瀧本誠、原沢久喜ら五輪メダリストたちの名前がある。

小川直也は明治大学在学中に世界選手権を制し、史上最年少の19歳7か月で世界チャンピオンになった。ソウルオリンピックは斎藤仁の壁に阻まれ出場できなかったものの、大学4年次に平成元年の全日本選手権を優勝し日本最強の座を勝ち取っている。
そして決勝で「平成の三四郎」こと古賀稔彦を破って全日本選手権連覇を飾ったのがこの年の4月、JRA入会直後のことだった。

学生時代から競馬ファンだった小川は望んでJRAに入会し、最初の研修で行ったのがオグリキャップが勝った安田記念だった。
柔道選手は普段は現場には出ないが、有馬記念は毎年警備の応援に行く習わしになっていた。

「自分は警備担当で、上司と一緒に場内を私服で巡回していたんですが、あの日は休む間もなかった。現場では正午の段階でどうしようかということになってましたからね。収容人数をはるかに超えて、もう入れるなと警察からは指導されるし、お客さんは開けろ開けろと言う。入場してもレースを見るどころか、パドックにも行けないし、馬券も買えないのに」
 有馬記念の時刻が迫ってくると、巡回する職員たちもいよいよ動けなくなる。
「最後はせっかくだからレースを見ちゃおうかとなって、記者席の横で見てました。ほんとうは巡回してなくちゃいけないんだけど、動こうにも動けないんだから。で、下を見たらものすごい人で」
 最終的な入場者数は17万7779人だった。空前絶後の数字である。

『ナンバー』917・918合併号 文藝春秋社

1990年はオグリキャップが起こした巻き起こした第2次競馬ブームのピークとなった年だ。
この年の春、アイネスフウジンが逃げ切り「ナカノ」コールが沸き起こった第57回日本ダービーでは、東京競馬場は19万6517人の入場人員を記録している。これは日本史上今も破られていない最高記録である。
これ以上に人びとが集まったイベントは、歴史上存在しない。

オグリキャップの有馬記念の入場者数はこれに及ばないが、東京競馬場と中山競馬場の収容能力の差を考えると、第35回有馬記念で叩き出した18万に迫る数は驚異的だと言っていい。

これはどれほどの熱狂なのだろうか。

実際に有馬記念の日に中山競馬場へ足を運んでみると、発走時刻のころにはスタンドは立錐の余地さえなくなるほどに混雑し、上着越しに触れる周りの群衆の圧力に恐怖さえ覚えるものだ。
しかし、それでも近年の入場者数は10万人をわずかに超える程度である。
数字を見るだけでも、オグリキャップの有馬記念が、いかに常軌を逸したイベントだったのかがわかる。

中山競馬場は午前中から異常事態となっていた。
新装なったスタンドにはすでに人があふれ、一階自由席はファンで埋め尽くされていた。押し合いながら動く人々が黒い波になっている。
「あの日は、もう午前中から異様な雰囲気でしたね」

『ナンバー』917・918合併号 文藝春秋社

オグリキャップに騎乗した武豊はそう証言する。
武豊は前日に京都から移動し中山入りしたが、すでに中山競馬場には前日夜から徹夜で並ぶファンの列が200mほども続いていたという。

この日、中山競馬場は入場制限を実施していなかった。
午後3時には入場者が17万人を超えたと発表されたが、発走時刻が迫ってもまだ客はやって来ていた。

そしてゲートは開かれ、18万の観衆が見守る中で、オグリキャップは勝った。

ゴンドラ席で見ていた小川直也は仕事を忘れて叫んでいた。勝てる可能性は10%もないと思っていたオグリキャップが先頭でゴールを走り抜けた瞬間、柔道の世界チャンピオンは上司と抱き合って喜んでいた。一ファンとしても、JRAの職員としても、オグリの走りにしびれた。
「お客さんが引くまでしばらく待とう」
上司のことばに余韻を楽しむことにする。保安課の仕事がほんとうに忙しくなるのは最終レースが終わってからだった。

『ナンバー』917・918合併号 文藝春秋社

私はこのエピソードがとても好きだ。
警備する側も、警備される側も、一緒くたになってオグリの走りに夢中になっている。あの193cmの巨体の小川直也が、群衆のなかで揉みくちゃになりながら。

人びとが集まり、密集すると、人と人との境界が取り払われ、各人の属性を超えてひとつになることがある。それは日常の時間感覚を抜け出した一種の混淆、恍惚の状態である。それはほんとうの「祝祭」と言うべきものである。

そんな奇跡のような出来事を創り出す力を、オグリキャップは持っていた。
そして年の瀬迫る有馬記念は、奇跡の起こる舞台だった。

いつか、あのオグリキャップのラストランのようなレースが見られるだろうか。日本競馬最高の日を、この目で見ることができるだろうか。

そんなことを思いながら、今年もまた有馬記念を迎える。



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