【小説】駈込み産声
べつに怒ってない、怒ってないってば、ほんとに。はるこちゃん知ってるじゃん、あたしが全然怒んないの。
ちがうよ優しいわけじゃない。あたし、怒るのがへたくそなんだと思う。通りすがりのおじいさんに杖でぶたれても怒れなかった。きっとおじいさんも大変なんだなあって思うだけ。お姉ちゃんのカレシが浮気してても怒れなかった。男の人って多分そういうもんなんだろうなって思って。友だちが待ち合わせに一時間寝坊したときも、課長のミスであたしの一週間分の仕事のデータが消えたときも、べつに怒ろうなんて思わなかった。
ごめんね、あたし、何も期待してないんだと思う。そう、そうだね、あいつはそのことを言ったんだね。ちょっとわかってきた。わかりたくないけど、わかってきたよ。
たぶん、人間を信じてないの。だから何されても失望しない。何にも期待してないから、裏切られたなんて思わない。蚊に刺されたって怒んないじゃない。だって蚊って人の血を吸って生きてるでしょ? そうしなきゃ死んじゃうじゃん。それと一緒なんだと思う。相手が何しても、何されても、そういう生き物なんだなあって思うだけ。
だいたい、あたしは誰かに怒れるくらい大した人間じゃないし。あたしだって人さまに迷惑かけて、誰かを傷つけて、そうやって生きてるのになんで自分は正しいって顔でほかの人を非難できるの? 正しい人間ってなに? まともな人間ってなに? みんなどこかしら狂ってるんだよ。ほんとはみんな人間のかたちをしてるだけの化物なんだ。
だからほんと、どうでもいいの。誰かに怒ったことなんてない。怒ったことないから、誰かを嫌いになったこともない。ああ、そう、誰のことも嫌いじゃないの。嫌いじゃない、好きだよ。みんなのことが好き。あたしをぶったおじいさんも、浮気してたお姉ちゃんのカレシも、友だちも課長も、みんな好き。みんないい人だと思う。みんなが狂ってるなら狂ってることは問題じゃないでしょ。だからみんな化物だけど、みんないい人だよ。
ねえはるこちゃん、そんな顔しないで。ううんわかるよ、そうだよね。あたしにもわかってきたよ、あいつの言ったことが。あたしが一番狂ってるんだってこと、やっとわかってきた。はるこちゃんはわかってたの? あたしがこんな化物だって知ってた? だめ、言わないで。どっちにしろこれは収まんないから。
怒ってなんかないよ。でも胸焼けがするの。火を吐きそうなくらい体が熱い。髪をかきむしって、大声で叫びたい、壁を殴って、それでも落ち着かない。殺してしまいたい。あいつの首に手をかけて、喉元に指を沈めて、きつく締めあげるの。そうしたらこの気持ちも落ち着くかな。わかってるよ、そんなことしない。でも初めてなの、こんなになるの。こんなに胸が苦しいのは初めて。
それともこれが怒るってことなの? みんなこんな思いしながら生きてるの? すごいね、あたしには無理だよ。死んでしまいそう。こんなに胸が熱いの、耐えられない。
違うの! あいつの言ったことは正しいんだと思う。あたしはたしかに誰のことも嫌いじゃない。そう、だからね、「誰のことも嫌いじゃないなんて、誰のことも好きじゃないのと一緒だ」って――そう、そうなのかもしれない。たぶんそうなんだ。みんなのことが好きなんて嘘っぱちだ。あたしは誰のことも好きじゃない。あいつは正しいよ。あたしにもそれがわかってきた。
だからそれはいいの。でもどうして? どうしてあそこまで言われなきゃいけないの? あたし、人を蔑んだことなんてないつもりだった。自分が正しくない人間だってわかってたから、正しくあろうと努力してきたつもりだった、誰も傷つけないように、誰にも迷惑かけないように、それなのに!
ねえはるこちゃん、はるこちゃんもほんとは感じてたの? あたしに蔑まれてるって思ってた? だとしたら言わせて、あたしはそうじゃない、蔑んだことなんてない。本当なの、あたしは……。
……ありがとう、はるこちゃん。よかった、はるこちゃんがそう言ってくれて。ううん、でもだめだ。忘れらんない。あいつの言ったこと、頭の中でずっと音になって止まんないよ。
おまえ、俺を蔑んだような目で見るだろって――本当はみんなのこと見下してるんだろって――ああ!
わかんない、わかんないよ。あたしの何がだめなの? 人間に期待してない、それは本当なんだと思う。誰のことも好きじゃない、それも本当なのかもしれない。でも誰かを見下したことなんてない。だって誰かを見下せるほど自分が大した人間じゃないって知ってるから!
本当、ほんとうなの……でも……もうわかんないよ、あたしは本当はどうなの? あたし、みんなを蔑んでたの?
みんなが自分より卑小に見えてたから、みんなが自分より愚かに見えてたから、だから怒らなかっただけなの? だとしたらあたし……
あたし、最低だね。
あいつはわかってたんだ、あたしがこういう人間だってこと。ああ、そう、そっか。あいつだけがわかってた。
あいつだけが、あたしをわかってくれてた。
あいつさ、言ったの。でもおまえが一番蔑んでるのはおまえ自身だろって。そうだね、それもたぶん本当なんだと思う。あたし、自分が嫌いだ。大嫌い。誰のことも嫌いじゃないけど、自分のことだけは世界で一番大嫌いだよ。あいつはそれもわかってたんだね。
どうしてあいつにはわかっちゃったんだろうね。あたしのことなんか何でもないくせに。ただの友だちで……ずっとただの友だちで。あいつにはちゃんと恋人がいて、一途で、あたしのことなんかろくに見てなかったくせに。ねえ、なのになんでわかったの? ずるいよ。何でもない女に、どうしてあんなこと言ったの?
わかってくれなくてよかったのに。何も言わなくてよかったのに。どうしてわかったの、どうして言ったの? あたしはどうしたらいいの?
苦しいよ、わかんないよ。胸が痛いの。体が熱いの。あいつのこと殺してしまいたい。俺のこと蔑んだ目で見るだろなんて言いながら、あたしのこと憐れんだ目で見たあいつが忘れらんない。いっそ憎んでほしかったのに。そうしたらせめて憎しみだけはあたしのものだったのに。何でもない女じゃなくて、憎まれる女になれたのに。
でもあいつはあたしを憐れんだ。何でもないあたしに、ただ、憐れみだけ……それだけ……。
ねえ、これが怒るってことなの? これが人を嫌いになるってこと? これが憎しみ? 胸が張り裂けそうなのも、火が出るくらい熱いのも、全部全部憎いからなの?
あたし、初めて人を嫌いになれたんだね。ねえ、はるこちゃん、どうしてそんな顔するの? あたしにもやっとわかったんだよ。狂ったあたしが、やっと怒ることを知ったの……でもこんなに苦しいなら知りたくなかった。人を憎むことも、怒ることも知らないままでいたかった。
どうしたらいいの、あたし。助けてほしいよ……誰か助けて……ああ、うそだ。どうしてこんなときまであいつの顔が浮かぶの? 大嫌いなのに、あたしを侮辱したのに、どうしてあいつに助けてほしいなんて思うの? わかんない、わかんないよ。
ねえ、はるこちゃん。これが人を嫌いになるってことなの?
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