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愛するということ/推すということ

 何度か愛について書いてきて、そしてまた何度か愛について書こうとして挫折して、やはりまた愛について書いてみようと筆を取る。

 私は愛というものを信じていないけれど、だからこそ愛は私の永遠のテーマなのだと思う。

 誰かを愛する、というのは、期待することと似ている。私は過去にそう書いた。誰も「ありのままの他人」と言うやつを認識できない。ならば自分の目に見えている部分だけで相手の人となりを判断し、愛する行為は、「こういう人であってほしい」という期待に似ている。

 それは言い方を変えると、愛するというのは「わかった気になる」ことだとも言える。ほんとうは他人のことなんてわかるはずもないのに、相手のペルソナを見て「あなたはこんな人なんですね」とわかった気になる。そうして愛をかたむける。

 勘違いしないでほしいのだけれど、私は愛を信じていないが、かと言って憎んでいるわけでもない。だから愛を虚構だとか言うつもりもない。人間にとって愛が必要不可欠であることは間違いない。それは愛されずに育った子どもがどんな不幸な道をたどるかという点から説明できると思う。

 でも、それでもやはり愛はどこか胡散臭い。


 もとより真っ白な人間などいるはずはないのに、誰も彼も自分の愛した人は清廉潔白だと信じたがる。

 ひと、はいつもいろんな色の入り混じった曖昧な存在で、うつくしいだけの人間などいないし、絶対的な悪人もいない。いつもは白が支配的な人でも、ときには赤くなったり、青くなったり、黒くなったりする。正しさと悪、うつくしさと醜さはいつも入り乱れながら不安定にうごめいている。

 なのに自分の愛した人に一点の染みを認めたとたん、過去現在未来に渡ってそのひとのすべてが真っ黒だと考えてしまう人は案外多い。

 へんな話だ、と思う。愛した人が、たとえば誰かを口汚く罵ったとして。それは裏切られたわけでも騙されていたわけでも何でもないのだ。ただ見えていなかったものがちらと姿を現しただけ。いろんな色を持つ人間の、たまたま出てきた染みが見えただけ。

 だからその人がそれまで見せた優しさ誠実さ、これから見せる真剣さ思いやり、そのすべてが嘘になるなんてことはありえない。

 なのに人は真っ白なものを愛したがるから、否、自分の愛したものは真っ白であると思い込みたいから、愛した人が見せた一点の染みを許せない。そうして愛したはずの人を攻撃する者もあれば、黒い染みがあることを真っ向から否定して信じない者もあり、深い苦悩の中に閉じこもる者もある。


 それを見るたびに私は思う。ああ、これこそが愛なのだと。


 わかったつもり、になって、なにひとつわかってなどいなかったことを突きつけられて、苦しんで。推し活というもので人と繋がるようになってから、そういう苦しみをよく目にするようになった。

 ファンの推しに対する感情は、もしかしたら付き合って一年で別れるカップルたちなんかに比べたらよっぽど愛と呼ぶにふさわしいものかもしれない。推しのすべて、文字通りすべてを受け入れて、尊敬して、自分のすべてをかけて愛して。そうやって「推す」人は少なくない。

 だから、推しの「一点の染み」を見てしまったときの衝撃と苦悩ははかりしれない。


 2023年11月、そうやって苦しむのが嫌になって、誰かを熱烈に「推す」ことをやめようと思った。

 好き、という気持ちはもちろんある。けれど所詮他人でしかない推しに対して「あなたのすべてを受け入れます、あなたのすべてを尊敬します、あなたのすべてを愛します」とまで言う覚悟はなくなった。

 だから今後、私の好きという気持ちは「好き」以外の何者にもなり得ない。正確には元からそうだったのだけど(だから私はずっと推しに対して愛という言葉を使うのを忌避してしたのだし)、その決意がより強固なものになった、と言うべきだろうか。

 私は今後も推したちに対して好きという言葉を使うと思う。だけれどそれは「ダンスが好き」「歌が好き」「おもしろいところが好き」「ストイックなところが好き」というような意味であって、「私のすべてをかけてあなたのすべてを愛します」という意味ではない。


 私はそれを、悲しいこととか虚しいことだとは思っていない。

 そもそも、不特定多数の人間から重い愛を向けられるって、とても怖いことなんじゃないかと思うのだ。

 だって愛は期待だ。「わかったつもりになる」ことだ。だから見たこともないたくさんの他人から愛されるって、とてもプレッシャーだと思う。ときには愛が転じて攻撃してくる人も、いるわけだし。

 だから私は推しを適切に好きでいたい、と思う。もちろん私の推し方が正しいわけではない。何人かは「あなたのすべてを愛しているよ、だからあなたが何をしてもあなたの味方だよ」と言ってあげる人がいたほうがいい。そういう盲目的な愛も、きっとステージに立ち続ける類の人たちには必要だ。

 だけど私には、そういう推し方はもうできないな、と思うから、この感情が愛にならないように目を光らせつつ、彼や彼女が見せてくれるペルソナをいちファンとして適切に消費したい。

 薄情なのかもしれないけれど、愛を信じていない私にはそっちのほうがよっぽど誠実なやり方なのだ。

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