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「ゆっくり育つが急に終わる」(2023年5月)

●5月1日/1st May
「しゃべる者は知らない、知る者はしゃべらない」

●5月3日/3rd May
まなざしの革命放送をポッドキャストで続けて来たが、もうそろそろ潮時かなと感じている。これまでの放送がどう受け止められたかはあまり聞こえて来ないが、続ける意味を失いつつあるということもある。
それ以上に、そもそも聞いたところでシステムに絡め取られて何も出来ず、他人事として眉をひそめながら神妙そうに理屈を語る大人しかいないならば、直接子供に語った方が良いのではないかと思い始めている。

●5月5日/5th May
 誰かが困っていたら助けてあげるのは当たり前のことではある。ヒトは一人で生きているわけではなく、多くの人に直接的、間接的に支えられて生きている。だから人を助けようとしないのであれば、自分も助けてもらえる道理はなくなってしまう。それは因果法則に反している。
 ただ助けるというのが何を指すのかには注意が必要だ。その人はどういうことで困っているのか。その問題に対してその人の力では何が解決出来ないのか。そして自分にはその解決に対してどのような能力があるのか。それらをチェックした上で、何をどこまで出来るのかを考える必要がある。
 相手を闇雲に助けることが必ずしも相手にとって本当の問題を解決するとは限らない。ヒトも含めた動物は基本的には自分の力で生きていかねばならないことが前提だ。だからまずは自分でしっかりと生きようとすることが根底にあるのだろう。それでも困ったことが出てきた時に助け合うことが必要で、それは自分が生きることを怠けることになってはならない。

●5月6日/6th May
雨ですが今夜は満月です。残すところあと2回になりましたが、「まなざしの革命放送」の新エピソードがアップされましたので、共有します。
今回は考察も不確かで単なる思考実験的な部分があるので、これまでと違ってあまりシェアしないで欲しい内容です。

まなざしの革命放送
第二シーズン

Vol.039 文明をゼロからやり直す事態へ

満月の夜。この革命放送の第二シーズンも色々と話してきましたが、今回と次回の放送で終わりにする予定です。せっかくなので、今夜は今の文明が置かれている状況と、それが一瞬にして崩壊する可能性について、少し思い切った学説などを取り上げて、自分なりに考察してみます。前回の内容もご存じない方にはショックだったかも知れませんが、今回は少し絶望的な話に聞こえるかもしれません。アカデミズムでは言えないようなことですし、可能性の一つとしての考察なので、興味ある方のみお聴き頂ければ嬉しいです。

●5月7日/7th May
休み中はS地点の整備に明け暮れる。結局、山の斜面を開墾して終わってしまった。剪定しっぱなしだった枝を手製のロケットストーブで焼却し、薪にした枝は屋根の下に移動。雨の前に終わって良かった。
S地点ではヒト以外の生命が主役だ。その中で最も身近なのが虫たちで、動物や鳥よりも長い時間を共に過ごす。とはいえ、か弱くて寿命が短い虫たちはすぐに死んでしまう。そんな虫を殺すなどというのはあり得ない話で、こちらが何もしなければ、あんまりヒトの邪魔をすることはない。
それどころか、こちらが興味を持っていると、遊んでくれたり話しかけてくれることもあり非常に楽しい。普段は忙しそうに動き回っていて相手にしてくれないアリが、昨夜はこっちを見て話しかけてきた。どうやら僕の懐中時計に興味があるようで、行ったり来たりしていた。
都会では家に侵入してくる虫は邪魔者だ。敵としてみなされた生命は生きようとして必死で抵抗してくるのは当たり前だ。そんな当たり前の自然のルールが分からなくなった社会では、簡単に虫や生命を殺そうとする。そんな大人たちがいくら立派な理屈を唱えても単なる観念論に過ぎない。
生命を殺めることに鈍感な感性を持つ人々が語るような、エコな暮らし、生命かがやく未来、地球に優しい技術など信用出来るはずもなかろう。頭ばかりの学者や儲けたいだけのコンサルが、雄弁に理屈や正論を語れば語るほどリアリティは遠のいていく。せめて、殺めようと思わずとも殺めてしまわざるを得ない悲しい性に葛藤する方が、ヒトとしてまだ誠実だというものだ。


●5月8日/8th May

そうか五方十二面体は切頂二十面体の双対だったのだな。ダイマクシオンマップで以前より引っかかっていたことが腑に落ちた。フラーはどこまで掴んでいたのだろうか。


●5月9日/9th May
今日の講義でも話してきたところだが、情報というのは何らかの意図をもって流されることが大半だ。何かショッキングな事件があった時こそ、その中身にフォーカスして反射的にあれこれ論じて善悪の判断をする前に、なぜそんなことが起こるのか、なぜそれがニュースとして流れるのか、それをきっかけにその後何が起きるのか、そして誰が得するのか、という可能性を少しでも推測するくらいの余裕を持ちたい。チラリとでも違和感があり、その直感を立ち止まって見つめる余裕を持てば、まなざしが誘導されることから少し冷静になれるはず。

●5月10日/10th May
システムでもテクノロジーでも、法律でも宗教でも、絵画でも建築でも、ジャズでもヒップホップでも、どんな表現物でもいいのだが、それが新しい表現形として最初に提示された時から、既に劣化は始まっている。
その表現が追随される段階で、ある程度洗練されていくプロセスを辿る期間というのは確かにあるのかも知れない。だがそれが生まれた時のリアリティがどんどん無くなっているのに、その表面的な様式にしがみついていても何も突破出来ないのだろう。

●5月12日/12th May
京都大学の総合生存学館と大阪公立大学の現代システム科学の研究交流会のため京大の思修館へ。せっかくなので、先に京セラ美術館で開催中の「跳躍する作り手たち」を観る。
アート、デザイン、テクノロジーの融合というフレーズはこの10年ほど、また仕切りに唱えられているので一応観ておく。以前、同じ美術館で京都STEAMを見た事があるが、そちらも京都の企業とアーティストの掛け合わせだった。
全体としては、美しい表現や、素晴らしい技術はあったし、手法として面白い作品もいくつかあって勉強にはなる一方で、まだ問いを掘り下げられるような感触だった。「自然」なるものとの融合が目指されているものもいくつかあったが、アウトプットありきで、都合よく後付けされているようにも見える。そこで言われている自然とは何を指しているのだろうか。
森美術館で開催された「未来と芸術」展でも感じたことではあるが、テクノロジーベースドアートは、やもすれば自然を短絡化して捉えてしまう傾向になりがちだ。自然と人工という対立軸そのものが揺らいでいる時代の中で、一歩踏み込んだ自然の捉え方について考える必要があると個人的には感じた。
少々モヤモヤした感じで、研究交流会に行って学生の発表を聞く。さすが総合知をうたうだけあり研究テーマは幅が広い。歩行空間のデータ解析、大気と海洋のプラスチックゴミの計測手法研究、スマート農業、危機言語のデータ解析、アートディレクションと地域ブランディングの研究、競争的利他行動の研究、読み書きできない発達性ディスレクシアの研究など様々。
今日は会の趣旨や自分が出席している理由もあんまり理解していなかったのでおとなしくしてようかと思ったが、ついついほとんど全ての発表にコメントしてしまう。社会実装が一つのゴールになっていることもあるが、一方で問題の掘り下げ方が浅いので、そのあたりを突っ込んでしまう。
研究発表後のディスカッションでもコメント求められたので色々と話したが、うちの学生には話しても全然反応してくれないが、京大の院生たちはどうやら違う視点に飢えているらしく、終わってからも激しく食いついてきた。
こういうエネルギー値の高い学生たちだと、もし自分のゼミで指導するならガンガン鍛えて、つまらんソリューションなど相対化しまくって、芸術表現と掛け合わせて、かなりぶっ飛んだ面白いことが出来そうだなとは思う。ただ他所の大学だし、自分は指導する立場にはないので、妄想はほどほどにしておく。

●5月13日/13th May
土の上にボール状に丸まった枯草があったので、そっと開けてみたら、親指くらいの大きさのモグラの赤ちゃんが3匹も眠っていた。起こしてしまって申し訳なかったが、ここに居てもらうと危ないので、そっと安全な場所に連れて行く。
モグラの赤ちゃんを初めて見たが、卵細胞から分裂して形作られて胎内から出てそれほど経っていないだろうが、立派に四肢と尻尾が伸びている。人間と同じようにモグラの一生にも星々の影響があるとすれば、モグラの今世の業は受胎した瞬間に生涯の基本的なフォーマットが決まることになる。
生命表象学的には受胎して基本的な運命が決まった後、3回の細胞分裂の段階で性別が決まり、9回の分裂くらいで内外反転が起こり内蔵が出来ていくのだが、モグラもヒトやマウスと同じと考えて良いのかどうか。

●5月15日/15th May
もう驚かなくなってはきたが、また拙著「まなざしの革命」が大学入試の問題に使われた連絡を頂く。桜美林大学ということだが、大学からの連絡ではなく、日本著作権教育研究会という社団法人から頂く。

どの大学の入試問題で使われたのかは、実は著者には直接連絡が来ない。なぜ使われたことが分かるかというと、参考書や教科書の中に試験問題を使う際に著作権許諾の連絡を頂くからだ。だから筆者とはいえ、他にどこかで使われていても把握できない。

これで把握しているだけで八校だが、ほとんどの問題が「常識」の章からの出題。そんな中で今回は珍しく「広告」の章からの出題で、マーケティングのあたりが取り上げられている。そのうち、問題をまとめて解いて、ブログに上げようかと。

●5月16日/16th May
6月8日に講演します。主催はMCEI大阪支部さんで、会場はエブリグランデ新大阪という場所です。MCEiはスイスのジュネーブに国際本部を持つマーケティングを学ぶ人々のネットワークで、ハナムラも以前に登壇させて頂いたことがあります。
この一年ほどは「革命」の話をしていて、今回もそのリクエスト頂きましたので、お話出来ればと思っております。革命の話をまだ聞かれたことない方は是非お聴き頂ければ幸いです。オンライン参加もあるようです。
(本をお読みになった方や、まなざしの革命の話をお聴きになった方々は重複する話がございます。)
一般公開の講演はDAS以来で久しぶりですが、コロナも明けたので、少しずつしていければと。

●5月18日/18th May
自分に対して、自信満々な人と、ちょっと自信がない人と、全く自信がない人がいる場合、一番教育効果が高そうなのは、真ん中のようにも思える。あまりに自信満々だと問題点を見ようとはしないし、あまりに自信がなさすぎると問題点しか見ようとしない。

●5月18日/18th May
少し前からは、SARUがもう一つの中心になってきているということか。仕掛けてきやがるな。これ以上、捜査してはいけないラインが設定されている中で、しくじった場合はどうするのだろう。


●5月20日/20th May
新月の晩。「まなざしの革命放送」の第二シーズンは今夜が最終回です。これまでお聴きくださった全ての方々に感謝いたします。最終回は何が起こるか分からないこれからの時代に、私たちがどういう態度で臨めば良いのかというメッセージを込めました。
前回お話ししましたように、文明自体が大きな問題を抱えていて、どうすることも出来ない現状の中でも、何が必要なのかを少し考えてみました。どうぞお聴き下されば幸いです。

まなざしの革命放送第二シーズン
Vol.040すべての失敗の原因とは

新月の夜。新しいリズムが始まる今夜のこの放送をもって「まなざしの革命放送」の第二シーズンを終了します。今夜テーマとして取り上げたのはすべての失敗の原因には一体何があるのかで、その問いを巡って、最後のメッセージを紡ぎたいと思います。世界は緊張に包まれていて、ますます先行きが見えない時代です。そんな中では、自分に出来ることを確実にしていくことからしか何も始めることが出来ません。私たちがこの先に失敗を繰り返さないために、どういうことが必要なのかについて、考えてみたいと思います。どうぞ最後までお付き合い下さい。

●5月22日/22nd May
 若い頃に苦労したのは、色んな物事についての考察も学習も明らかに不足していると思われる人が、ただ年齢や立場が上というだけであれこれ批判してきたり、妙な理屈を押し付けて納得を要求する理不尽さをどう理解するのかということだった。
 何か自分の理解が不足しているのではないかとか、経験が足りないから理解できないのかとか、当時はあれこれ悩んだが、今考えると経験や年齢や先輩後輩を盾にした単なるマウント行為に過ぎなかったのかと思い当たることも少なくない。
 今では歳を取ってきたのでそういう局面は少なくなったが、同じように名声や地位や権威や関係性を傘に、相変わらずマウント行為をする愚かな大人たちとたまに出会う。昔は何とか挑もうという気力もあったが、大体が変わる気も対話する気もないので、今では笑顔でやり過ごすしか選択肢がなくなる。
 たとえ3歳の子供であったとしても、自分よりも観察や考察が深かったり、本質的な問いを発することもある。知識や表現が不足しているだけなのに、それを単に子供だからということで、理解や感覚を未熟だと決めつけたり、可能性を封殺したりするのは絶対にしてはいけないことだ。
 その逆も然りで、年寄りだからといって若者の感覚や時代が読めないなどと舐めてかかってはいけない。本当に知恵のある人はもっと高所大所からモノを見ていて流行には流されない。大体、もし輪廻という概念を受け入れるのであれば、現世での年齢など単なる数字に過ぎない。そんなことで人間の心の履歴や熟度は測れないし、智恵の深さは測れない。

●5月22日/22th May
 もういい加減いちいちシェアするなと言われそうだが、一応。拙著「まなざしの革命」から入試問題としてまた新しく採用された連絡を頂く。
今度は東北工業大学で、拙著の「広告」の章から。これで2022年度の入試問題としての採用が九校目。この調子だとまだ来そうか。

●5月22日/22th May
今朝、東北工業大学から入試問題への採用の連絡あったが、数時間後に今度は甲南大学でも拙著「まなざしの革命」から入試問題に出題された連絡を頂く。
こちらも「広告」の章。「広告・広報・宣伝」という節と、その次の「マーケティングと戦争」という節からの出題のようだ。
これで入試問題採用は10校になったが、うちの大学の広報課にお伝えしても、特にウェブサイトに載せるとかもなく、アピールとして使うような動きも今の所ない。取り上げられた箇所が「広告・広報」なのに、皮肉なものだ。ちなみに今のところ採用されたのは以下。
神奈川県立高校
福井県立高校
新潟県立高校
中央大学
立教大学
大谷大学
北里大学
桜美林大学
東北工業大学
甲南大学

だってさ。

●5月23日/23rd May
ちょっと気になることがあったので、最新のエイリアン研究はどうなっているのかを少し調べるために斜め読み。理論物理学者のジム・アル・カリーリが編集で、数学者のイアン・スチュアートはじめ錚々たる研究者が書いている割には、大変つまらない内容。やはり仏教も神道も知らない西洋の一神教に属する研究者の限界か。

●5月25日/25th May
物事の変化がますます加速する社会では、今すぐ何かを判断することを要求される。だが、変化するスピードが上がるからこそ、分からないことは分からないままに結論を保留することが大事だ。状況も情報も認識も常にアップデートされる余地はいつでも残しておかねばならないだろう。知ってはいるが確かめるまで信じないという態度が必要で、確かめられないことは保留するしかあるまい。

●5月25日/25th May
 2008年から2018年までの10年間、大阪の東部で実験的なアトリエを運営していた。その時に関わってくれていた最後の世代のメンバーと再会して近況報告を聞く。当時は学生だったが今では二児の父で立派になっていた。自分の頭でしっかりと思考し、自分の言葉で語れるようになり、実に頼もしく思った。
 スペースを開いていた10年間に、本当に数えきれないくらいさまざまな人と対話した。美術家や音楽家、アニメーターや職人、ダンサーや役者、演出家や映画監督、デザイナーや料理人などアーティストが多かったが、文系理系問わず大学の研究者やイノベーター、ビジネスマンやポリティシャン、地元の人や学生、子供や外国人などが混雑してカオスな状況の中で、いっぱい遊んだしいっぱい話した。
 その当時も今と変わらず、この理不尽な世界の中で、本気で生きることと向き合うために必要なメッセージを必死に話していたようだ。本人は何を話したのかは覚えてすらいない。しかし、その頃に学生だった彼らには僕が考えている以上に何かが残っていたのだなと再確認した。
 自分では教育していたつもりはなく、対話していただけだし、その時にリアルに感じていたことを包み隠さず伝えていただけだ。ただ、もし教育的な側面があったとすれば、それはきっとすぐに成果の出るものではなく、長い人生のどこかで効いてくるようなものなのだろうと思う。
 昨今はすぐに成果の出ることが求められがちだし、僕自身も響いている手応えが欲しいと思ってしまうこともある。ただ、その結果を求めることを捨てて、本当に大事だと思うことをその時その場で続けていると、自分も思わぬところで響いていて誰かの中で何かが育っていく。
 そういう意味で、ポッドキャストを継続的にやっていたのは良かった。離れていても声を届けることが出来るし、たとえ相手から声が返ってこなくても、それはしっかりと受け止められている可能性があるのだから。社会やシステムは一瞬で壊れるが、文化や思想はゆっくりと育まれていく。

●5月26日/26th May
 自分の中での芸術の役割は、若い頃から今まで、ヨーゼフ・ボイス的な立場として理解してきた。つまり社会の中に芸術が作用することで、何かの変革が促されていくという社会彫刻的なチカラに着目していた。
しかしここのところ自分の中で、ミヒャエル・エンデ的な立場に少し感覚が変わってきたことに気づく。つまり社会の中に芸術が直接作用しなくても、作品が創造されて存在していることだけで、何かを変革するチカラを持っていることだ。
自分が何かの作品を作ったとして、それを社会に殊更訴えることがなくても、誰に見られることがなくても、それがどこかで世界を変革している可能性がある。そう信じると、この世界の現象に対して宇宙的なスケールで見るまなざしが開かれるように思える。

●5月28日/28th May
 「まなざしの革命」は9つの章に分かれているが、1つの章だけでは全体像は見えてこない。複数の章を組み合わせて自分で思考しないと、この時代が読み解けない作りになっている。いくら試験問題に使われても、各章が切り取られていると、時代の流れは見えてこないかもしれない。
 例えば「貨幣」について書いた章があり、貨幣の仕組みや今後の予想などについて色々と書いたが、そこではいくつかの可能性だけに触れて明確な結論は特に示していない。だが一方で、「管理」の章や「感染」の章と組み合わせると見えてくることがある。
 今や我々の生活のほぼ全ては金に依存しているのが社会の現状だ。ペットボトル一本の支払いから電車賃、家賃や医療費など生活の全ての局面にお金が関係してくる。それは半ばデジタル化しているが、まだ紙幣が使えている間は自由が効く。
 これが発行主体がデジタル管理する通貨しか完全に使えなくなるとどうなるのか。しかもまたパンデミックのような緊急事態になるとどういう状況になるのか。何を得て、何を失い、何が自由になる代わりに、何が制限されるのか。そういう発想が必要になってくる。最初に「常識」の章を持ってきているのはそういうことへ思考を開きたいからだ。

●5月28日/28th May
 普遍性と個別性、抽象と具象、唯一なるものと多様なもの、全体と部分、理性と感性、精神と物質。相対する二項の設定は古代からのテーマではあるが、どちらが優れている劣っているという価値判断が入ると、途端にイデオロギー的になる。
 呼気と吸気のどちらが優れているのかという議論が不毛なように、光と闇、一なるものと多なるもののどちらが優れているなどというのはナンセンスなのだろう。

●5月29日/29th May
 ファッションと彫刻と建築を、生前と生中と死後と関連づけるという人智学的な補助線は興味深い。服飾芸術は心魂が身体に進入するのを示し、彫刻は現世の人間を精神的に見ることができる。それにたいして建築は人間の心魂が身体を離れた時に得ようとするものに関与する。だから建築は墓から発生したという。

●5月30日/30th May
 人間の一生は本当に短い。長くても20年を4回ほど繰り返したら、もう今の人生の幕を引かねばならない。ほんの3万日くらいの間に、どれほど凄いことを成し得たとしても、それらを全てこの世に置いて退場することになる。
 いくら去りたくないと願っても、それは決して叶わず、時が来れば必ず独りで行かねばならない。今がいくら幸せに満ちていても、どれほど苦しみに満ちていても、最後に今の身体から解放されて、それまでの全て記憶を失ってしまう。
 だから人は自分のことを覚えていてほしいと望み、誰かの記憶の中に生きようとする。自分が生きた証、自分しか知らない想いを誰かに理解して欲しいと願う。それがたとえ自分が知らない誰かであっても、むしろ知らない人だからこそ自分の胸の内をさらけだすことができる。
 そんな記憶と継承について、自分の作品を通じて考えたことがある。 2018年の「地球の告白」というインスタレーションと、2019年の「半透明の福島」というインスタレーション。それらの作品の中で手紙というメディアを使って、名前も知らない誰かの記憶は、何の繋がりもない誰かの中に刻まれていく。
 短い期間のインスタレーションだったが、その間に訪れた人々が書いた膨大な手紙が残っている。匿名で書かれた手紙だし、誰に読まれるかも分からないようなものだが、そこには赤裸々な想いが書かれている。誰もが辛い想いをしていて、人生が本当は苦しいものであることが現れている。
 誤魔化さずにその苦しみに向き合うことが出来れば、毎日毎日を誠実に生きることが出来るだろう。もしアートが他のものと何か役割に違いがあるとすれば。それは生活をイノベーションして便利にしたり、夢を与えてドキドキワクワクさせたり、クリエイティブに問題を解決したり、というようなことではないように思える。生きることにしっかりと向き合うきっかけとなることなのだろう。

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