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出鱈目な物語を真摯に語ることについて――チャールズ・ブレイビン監督『ジンギスカンの仮面』(The Mask of Fu Manchu,1932)

 21世紀現在、倫理的であったり法令遵守的であったりする側面から好意的に迎えられない作品というものが存在する。映画に「問題」というものを持ち出さないでほしいというのが私の考えではあるが、今や誰もが「問題」を語りたがる時代なのかもしれない。今から触れようとしている『ジンギスカンの仮面』(The Mask of Fu Manchu,1932)もそのような1本である。だが、それゆえに作品の価値を見誤ってはならぬことはいうまでもない。


 ゴビ砂漠にてジンギスカンGenghis Khanの墓を発掘するはずであったローレンス・グラントLawrence Grantが消息を絶つ。ボリス・カーロフBoris Karloff演じるフー・マンチューDr. Fu Manchuの部下にさらわれてしまったのである。ジンギスカンの秘宝である黄金の仮面と三日月剣をめぐって、フー・マンチューと、ローレンス・グラントの娘(カレン・モーリイKaren Morley)とそのボーイ・フレンド(チャールズ・スターレットCharles Starrett)、警視総監のルイス・ストーンLewis Stoneの間で争いが始まることになる。


 私は例えばスティーヴン・スピルバーグSteven Spielberg監督の『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(Raiders of the Lost Ark,1981)のような映画をこそ愛するべきと考えているので、この物語の出鱈目さだけで偏愛の対象としたいところだが、出鱈目な物語の映画を優れた映画として成立させるには、同時に優れた演出が求められる。出鱈目な物語に甘んじ自堕落な演出でだらだらと進む映画のいかに多いことか(スピルバーグの「インディ・ジョーンズ」シリーズでさえそのきらいはあるのだ)。その点『ジンギスカンの仮面』におけるチャールズ・ブレイビンCharles Brabin監督の演出の簡潔さというべきものは、この出鱈目な物語をきびきびとした語りで進めることに成功している。たとえば、ボリス・カーロフの部下による暗殺シーンはどのようなショットで構成されているだろうか。


① 木の上に暗殺者が潜むのを仰角で見上げたショットで捉え、暗殺者はフックのついたロープを揺らし、投げる。
② フックが屋根にひっかかる。
③ フックが屋根にひっかかるときの音で男が顔を上げる。
④ 同じように女がベッドから跳び起きる。
⑤ ③のショットで顔を上げた男は、物音を不審がりつつも元の体勢に戻る。
⑥ 暗殺者がロープを滑って男の部屋の窓近くにやってくる。
⑦ 室内からのショットで、画面左に男を、画面右の窓の外に暗殺者を捉える。
⑧ 暗殺者が口にくわえたナイフを右手に持ち、振りかぶる。
⑨ ⑦と同じポジションのショットに戻り、暗殺者がナイフを投げる。
⑩ 男の背中にナイフが突き刺さる。
⑪ ⑧と同じポジションのショットに戻りゆっくりと暗殺者が窓を離れようとする。
⑫ 男が振り返り、拳銃を構え窓の外の暗殺者に向けて発砲する。
⑬ 暗殺者がロープから落ちる。


 この一連のショットの連鎖にはひとつとして無駄なものがなく、すべてが説話に貢献している。また、⑥と⑬、⑦と⑨と⑫、⑧と⑪は同じポジションのキャメラからのショットになっており、B級映画的な効率的な撮影が行われたものと推測される。もちろん、この映画自体はメトロ・ゴールドウィン・メイヤーMetro-Goldwyn-Mayerが『フリークス』(Freaks,1932)の興行的失敗を取り返そうとして製作されたから、そこには少なからぬ期待が寄せられ、少なからぬ予算が投じられていたとは思う(いっぽうで脚本が当日になっても仕上がらないなど、混乱した現場ではあったようだし、この映画は当初チャールズ・ヴィダーCharles Vidor監督によって進められていた)。だが出鱈目な物語を簡潔に語りきってしまうこと、その物語るという行為の真摯さとでもいうべき事態をこそ、注目しておきたい。


 ところで、このチャールズ・ブレイビンという人物は、『ジンギスカンの仮面』のような優れた映画を残しているが、IMDbによればフレッド・ニブロFred Niblo監督の『ベン・ハー』(Ben-Hur: A Tale of Christ,1925)にもクレジットなしではあるものの関わっていることを除けば、21世紀の日本ではほとんど知られぬ名前である。1934年に遺作を撮り終え早々に表舞台から姿を消してしまったからだろうか。しかし、記憶さるべき名前であることはほぼ間違いないことのように思える。


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