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映画でオリジナリティは必ずしも求められはしない――ローランド・ブラウン監督『ヘルズ・ハイウェイ』(Hell’s Highway,1932)

 題材からしてマーヴィン・ルロイMervyn LeRoy監督の『仮面の米国』(I am a Fugitive from a Chain Gang,1932)を受けて撮られた、いかにも柳の下の二匹目の泥鰌を狙ったような作品だが、このオリジナリティといったものにまったく背を向けたこの作品が、真に優れた映画であることは、映画において、オリジナリティなるものはまったく影響しないものであるという証左であるように思われもする。


 冷酷な刑務所の看守らの横暴とさえいえる振舞いは、囚人たちを非人間的に扱っており、囚人のひとりが死んでも歯牙にもかけない。そのような状況下で抑えがたい憤懣を爆発させ、囚人たちが暴動を起こすというのが『ヘルズ・ハイウェイ』(Hell Highway,1932)の物語である。やはりここにオリジナリティなるものは読み取れない。このような物語自体、『仮面の米国』の焼き直しにすぎないし、たとえばドン・シーゲルDon Siegel監督の50年代を代表する傑作のひとつである『第十一監房の暴動』(Riot in Cell Block 11,1954)のような作品と大きな違いがあるだろうか。
 たとえばひとついえそうなことは、ごく限られた予算で撮られた小さな映画であるということである。明らかにスタジオではなく外で撮られている。『仮面の米国』の批評的あるいは興行的成功を受けて撮られたのだから、それは仕方のないことであろうとは思う。あるいは『第十一監房の暴動』との違いは、音声である。『ヘルズ・ハイウェイ』が撮られた1932年は、まだ映画が音声を獲得してほどなくしたころであり、実際、この映画では、囚人たちを取り巻く音(チューニングがずれたバイオリン、囚人を繋ぐ鎖の雑音)が苛立ちを加速させるかのようだ。


 音声に特筆すべきところはあるが、あくまで紋切型の展開にすぎない。だが、この映画はめっぽう面白い。引き締まったタイトな語りで描かれる暴動に至る顛末、ラストの暴動の暗闇の中に燃え上がる炎を背後に銃声が響くが、誰がどこに向けて撃っているのかわからないほどの不可視の空間は、まさに地獄というべき状況である。最後の看守の蛮行が咎められ手錠をかけられるシーンはやや甘い感じだが、これは追加撮影された部分のようだ(ジョン・クロムウェルJohn Cromwellが担当している)。いずれにせよ、ローランド・ブラウンRowland Brown監督の手腕を疑う余地はなく、『ヘルズ・ハイウェイ』はいささかの誇張もなく傑作と呼ぶことができるし、この前作にあたる『速成成金』(Quick Million,1931)もまた同じく優れた映画であるが(ところでこの記事を書いている2021年5月現在、シネマテーク・フランセーズCinémathèque françaiseでベルトラン・タヴェルニエBertrand Tavernierによるセレクションとして上映されるようだ)、監督した映画はわずかに3本に留まっている。もともとシナリオライターのようだが、この監督作の少なさには残念な思いも少なからず抱いてしまう。適確なショットの連鎖で過不足なく物語ることで優れた映画を撮ることができる手腕は、至る所に署名をして回らないと気が済まぬ現代映画作家と呼ばれる一群のひとびとに対し、優位であると確信している。



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