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「忘れてしまったが何かを覚えていた」という記憶

「忘れてしまったが何かを覚えていた」ということをそもそも覚えているのは不思議ではないか」「覚えていなければ、忘れてしまったことさえ分からないではないか」という問いがある。
しかしそもそも、「何かを記憶していたという記憶=メタ記憶」が存在する方が自然な状態なのではないだろうか。何にせよ「記憶」を利用するためには、記憶そのものを担っている部分以外の部分が、その記憶について何らかの認識(+モデル化)をしている必要があるわけだから。
そういう意味ではむしろ「メタ記憶でない記憶そのもの」とは何であるか(両者が仮に区別できるとしたら)ということの方が不思議である。

「「何かを記憶しているという状態」の認知」とはいかなるプロセスもしくは状態なのか。

「忘れたことを覚えている」状態というのは、現在自分が保持している記憶や外部環境に存在する情報から、過去に「何らかの事象」があったことは「推測」できるが、「その事象に対応する記憶」は存在しない、ということだろう。あくまでも「何らかの事象」であるから、それが具体的に何であるかについては認めていないし、認めようもない、と。

そういう意味で、「忘れたことを覚えている」という状態の多くは、「文脈に支えられた知覚」ではないだろうか。それを差し引いた時に、それでも何か残るのか。
もっと言えば、その「文脈」は脳の外に限らないのでは無いか、つまり、記憶を直接司る部分(必ずしも物理的ではなく機能的領域)がそれを失ったとしても、隣接部分という「脳内文脈」から、脳内で「記憶を類推」するようなことがあるのではないだろうか。

いずれにしても、「記憶機能を主として担う領域」の機能不全を、機能的冗長性を持った周囲の領域が補完するということは十分あり得て(というより、領域の線引き自体が恣意的なのですでに定義上そうであって)、その場合、どの領域のどの冗長性をどの程度使って補完を試みるかによって、そしてその「成功/失敗」の程度によって、「「忘却した記憶」の記憶」についての認知」というものが特徴付けられるのだと思う。
それでもなお「記憶機能を主として担う領域」の持たらす特権的な「感覚」があるのかどうか。

入れ物は思い出せるけれども、何が入っていたかは思い出せない、ということはある。

「しまった、あれを忘れていた!」という時の「忘れた」は、「通常は情報を格納(記憶)しているシステムに定期的にアクセスしている別のシステムが、その時は何らかの理由でアクセスに失敗していた」ということなのだろう。
一方、「今は忘れてしまったが、かつて覚えていたということを認識している」というのは、「忘れてしまった情報」以外の利用可能な情報によって、少なくとも「忘れてしまった情報」が存在していたこと、その情報がどのようなカテゴリのものであったかなどを部分的に類推しているのだろう。

それに加えて多くの場合、「覚えていた時に感じていたであろう情報に対する確信」のような感情も、(その情報の内容自体は想起されないにもかかわらず)想起されている場合が多いであろう。

とはいえ、このように個別のケースに個別の説明を与えてみても、あまり面白くない。

こういうことは自分で考えるよりも心理学、認知科学、脳神経科学の教科書を読め、ということになるわけだが、案外知りたいことはすっきりと書かれていない。研究が可能であったことしか書かれていないわけだから当然だし、それ以外のものが混入していたら迷惑なだけなわけだが。

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