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日曜日

 そういえば今日は4月最初の日曜日。新卒の人にしてみたら、最初の日曜日で、明日からまた仕事。恐らく行きたくないと思っている人が多発しているのではないだろうか?私はそんな気持ちとはもう無縁の生き方をしているものの、決して誇れる生き方は出来ていない。今年の目標は自分が誇れる働き方をするだ。体裁しかまだ達成出来ていない。何せ金欠だからね。

 しかし、晴れた日曜日って本来すごく良い一日のはずなのに、日曜日という空気が私は未だに嫌いである。人と話すことは大好きだけど、人混みは大嫌いなんだと思う。今となっては曜日なんて関係のない生き方をしているはずなのに、日曜日だけは露骨に空気が日曜日だなと分かる。そこで曜日感覚が矯正される。

 本当は人々が楽しそうに歩いている場面ってほっこりするものだけど、この人たちは日ごろ社会に揉まれて大変なんだろうなとか、この中に誰かを泣かしている人が実はいるんだろうなとか、無関係なのに無駄に思考を巡らせてしまう。私の昔からの悪いクセだ。そのクセが付いてしまったのは、学生時代のバイトだと思っていて、学生バイトと言ったら土日のどちらかはきっと働いていると思う。平日バイトだけでやりくり出来る人はきっと管理能力が高い人だと勝手に思っているのだが、個人的にはどちらかは働いていた方が、平日の空いた時間を使える事を知っていた。だから、土日休みよりも本能的に平日に自由に動ける時間を作るようにしていた。

 だからこそ、土日のどちらかを働くようにしていたのだが、土日の客というのは平日に比べて確実に客の質が悪い。特に日曜日の質の悪さは異常だ。私の間違いはその土日に働いてしまった事で、市民の悪意を余すことなく受けてきてしまった。

 単純にそれだけだと言われればそれだけなのだが、その体験だけで人に優しくしようと思う心は傷つくのだ。

 まあ、誰かを大事にしようと思う気持ちを抱ける対象って、せいぜい家族や恋人、友達ぐらいの範囲でそれ以外の相手というのはどうしても感情移入の限界というものがある。沢山の人に全力で何かを応えようとしたら、確実にキャパオーバーとなってしまう。何事にも限界というものは存在する。

 新卒の社会人よ。私の偏見で申し訳ないのだが、歴代の社会人の中でもこの1,2年の新卒を見ていると、露骨に自分の権利を最優先にする人が多い。仕事が出来る出来ない以前に、労働というものを根本的に捉え方のおかしい子が間違いなく多い。ゆとりと揶揄されまくっていたゆとり世代ですら頭を悩ませているぞ。

 勿論、本当に戦わなければならない場面では、我々ゆとり寸前世代の時にも戦っていたし、今でも戦わなければならない場面はある。でもね、社会で仕事をするという事は、誰かと協力をして行う事でもあるの。その範囲かどうかの見極めは令和の世の中でも重要だとおじさんは思うのだ。その見極めを間違えた人から、今も昔も居場所を失ってしまう。

 勿論権利を主張するなとは言わない。が、守るべきものと譲るべきものを正しく選んできた人しか、組織って結局残れない。勿論組織を見捨てて私のようにフリーランスになったり、企業をする人も居るのだが。

 と、今では組織に属さず働いている私がどうこう言った所で、コンプラに陥れられたり、揉めている場所に遭遇する事もないし、日々仕事を貰えるかどうかという中で私は戦っているので、社内政治とは無縁の世界なのだが。

 一つだけ言えるのは、全ての動きを自分中心にしている人で幸せになれた人はこの長い人生、一人も出会った事はない。これだけはどの世代でも共通だと思うので、正しく見極めてほしい。

 と、日曜日の憂鬱な事を書こうと思っていたら、気が付けばおっさんの文章を書いてしまった。

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