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暗闇の灯 (小説) 5


あらすじ

クリスチャンの家庭に育ったものの、信仰を離れて久しいあかりは、みずからを呼ぶ声をかんじながらも、それに抗いつづけている。『あちら側』にいる家族たちのやさしさは、灯にはなまあたたかく、そして息ぐるしい。

神に、そして家族に反抗するため、誰にも賛成されない婚約をした灯だったが、神はその婚約者をも呼んでしまったのであったー。


紙の本でしか読めなかった小説の後半部分を、いまちょっとずつnoteにあげているところです。必要なひとにとどきますように。

※この小説は作り話であって、実在の団体や人物とは何の関係もありません※


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ひとつ前









 「田口、あいつもうダメだな」
 
 酔っ払ったお爺さんが、しゃがれた声でのたまう。「おい、旦那も呼べよお」という無茶をあしらったあとの暴言だった。海沿いのハワイアンレストランで、上品にはじまったはずの集まりは、いつしか雪崩のようにひとが増えて、近所のマンションに場所を移し、写真集と酒瓶に囲まれたいつものぐたぐたになった。

 灯がアシスタントをしていた先生は、ごく近所に住んでいる。もう七十代で現役を退いた先生を中心に、近所のカメラマンだの写真作家だのが酒を飲みながら、くだをまく会だった。掃き出し窓のそと、ベランダのむこうにみえる海は、もう暗く闇に沈んでいる。

 いつからだろう、というのは愚問だ。田口がこういう場に姿を現さなくなったのは、はっきりと彼が洗礼を受けたときを境としていた。そのあとも何度かは来たかもしれない。けれどあちらに浸れば浸るほど、彼はこちらで異質な存在になっていった。浮いていき、離れていく彼を取りつくろうように、灯はこちらに触手をはりめぐらせた。こういった横なのか縦なのかわからない繋がりは、仕事を紹介してもらうにも有利だったから。

 いまさっき、自分の夫に死刑宣告をした先生の顔を、灯はしずかに眺めた。先生はもじゃもじゃとした白い髪と眉をしていて、褐色の皮膚がたるんでいる。本棚に収まりきらない写真集が床に積み上げられた部屋のなかで、先生はいつになくただの老人にみえた。妻も子もいない、人生が終わってゆくのを刻々と骨に感じている、ひとりの老人。大昔に受賞した伊兵衛賞だの、何冊も出版した写真集だの、華々しい写真展の数々だのを、灯はいつも先生に重ねあわせてみていたのに。

 紅一点の灯が、無造作に立ち上がると、すこし部屋の空気が揺らいだ。澱んで、埃と滓がたまったような空気に、無性に風穴を開けたくなった。酒の臭いと、そして煙草と。一瞬じぶんが掃き溜めの鶴のような気分がしたが、それは気取りすぎだった。灯はいまのじぶんがこちらに属していて、彼らの虚しさと同じもので出来ていることくらい自覚している。

 隣に座るカメラマンの煙草から逃れたくて、灯は海のみえるベランダに出た。あれから三年が経っていた。田口が洗礼を受けたのちに、予定通りふたりは結婚した。それは彼に不幸なことであった、と灯は夫を憐れむ。だけれどあちらの世界のひとは、婚約を婚姻と同様に重い契約と見なすし、わたしはなんだか彼から離れてはいけない気がしていた。じぶんが祝福を受けられる最後の機会を、手放してはいけない気がしたのだ、とそこまで思って、灯はそのご都合主義に苦笑した。

 おかしな三年間だった。逆方向に突き進むふたりの人間が、おなじ軛を背負おうとした。そんなことって不可能なのに。田口はあれから、日に日に受難のキリストのような表情を帯びていった。灯はそれに表立って、見せびらかすように逆らうことはしなかったけれど、じぶんの刹那的な生き方を変えようとはしなかった。それはことあるごとに地色を表して、田口を苦しめた。

 「鷲尾、怒ったのか?」
 窓がひらいて、先生の声がした。夜の海に吹く風のように、先生は繊細でやさしい。それだから灯は、先生を見放すことができない。
 「先生に怒るわけにいきませんから」
 「ごめんよお。酔っぱらいジジイの放言なんだから」
 ベランダの足下に国道が走っていて、その先が浜である。古めのマンションだけれど、立地がよいからいまも高値で取引されているのを、灯は知っている。
 「あのひとはもう、わたしたちには理解できない世界の住人になっちゃったんです」
 灯はモルタル塗りの腰壁に、そっともたれて頬をよせた。火照っているので、その冷たさが気持ちよい。
 「世界が違うんです。あのひとは祝福された人間。わたしはあのひとと結婚したからというだけでそのお裾分けに預かっている、呪われた人間」
 「むかしは鷲尾にも、その世界の空気が漂っていたのに」
 先生が言う。
 「堕落しきっちゃった。もう元には戻れない」
 「ときどき鷲尾の写真に出てくる、あっち側のひとたち、いい感じだけどな。なんだか清らかで、アーミッシュみたいで」

 先生の視線の先には、浜できゃあきゃあと花火をしている若者たちがいる。暗くてよく見えないけれど、小麦色の肌を見せびらかすようにした、夏になるとよく出現する輩だ。あいつらうるさいんだよなあ、酔っぱらってて、と自らも酔っぱらった先生が言うので、灯は面白くなってしまった。もちろんその灯も酔っぱらっているのだけれど。

 「ときどきおれも田口が羨ましいよ。絶対的なものを持って生きてるようなやつが。妬ましいから、 おれたちはあいつを排除するのかもなあ。おれは真似なんか出来ねえよ」

 灯は黙って、じぶんの世界の浅さを感じていた。かしこいひとには、それが見えてしまう。絶対的なもの、という懐かしいことばに、灯はなにかを思い出しそうになった。あの日の真木の説教だけでなく、なにか世界が単純で、すべてに答えの備わっていた時代のことを。

 灯はマンションを後にした。半月形の浜の、ここまんなかから山の極まで歩けば、そこが家である。夏は空気にも感じられて、外の暗闇に街の照明が、湿気でぼわっと曇ってみえた。このなまぬるい夜に、海の傍を風切って歩いてゆきたい、のだけれど、灯は無性に吐きたくてたまらなかった。ふらふらと、家に帰った。玄関を開けると、物音を聞きつけて、田口が寝室から出てきた。

 「……寝てればいいのに」
 灯はふてくされたように言うと、玄関框にくずれ落ちた。顔をしかめた田口がそれを支える。ああ、 サイアクだなあ、と思いながら、こみあげてきた吐き気に、灯は靴を脱ぐこともそぞろに、玄関脇のトイレに顔をつっこんだ。後始末が済んだあと、もう着替える気力もなかった灯は、そのまま白いベッドに大の字に倒れながら、夫を相手にくだをまいていた。

 「……むかし読んだ、太平洋戦争のときのクリスチャン受難録を思い出すわ。クリスチャンはね、殴っても殴っても手応えがないんですって。手応えがないどころか、喜んでるんですって。逆さ吊りにしても、どんな拷問にかけても、喜びなさい、大いに喜びなさい、天には大きな報いがある、なんて呟きながら、恍惚としてるんですって」

 「嫌よねえ。すっごく嫌だと思うわ。なんかねえ、すごく気持ちが分かるのよ。気味が悪いじゃない。そういうとき、きっと自分がなりたいと思う以上に、嗜虐的になってしまうと思うのよねえ。ふふふ、ステパノなんて、石で打ち殺してしまえ、ってね」

 「わたしが汚れれば汚れるほど、あなたは清くなっていくのよねえ。ちょっと小気味がいいくらい。 お礼を言われたって良いわよねえ。わたしの周りなんか、そんなひとばっかりよ。放っておいてくれれば、わたしなりに善人になるのにねえ。わざわざわたしの罪を際立たせなくったって、いいと思いません?」

 「罪だのなんだの、ほんとによくそんな辛気臭いこと言ってられるわ。周りに比べて、わたしのどこが悪いって言うの。世の中には、わたしみたいなのなんて、ゴロゴロしてるじゃない。どうしてわざわざわたしを呼ぶのかなあ?  どうしてわたしを追いかけるのかなあ? このまま野垂れ死んでしまえれば、面倒臭くないのにねえ」

 田口は隣で伏せながら、黙って天井を見つめていた。彼に口を挟む余地もあたえずに、灯はひとしきり気持ちよくしゃべって、そしていつの間にか意識を失った。



つづき


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