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我々はどこから来たのか


 これは、わたしの一冊目の本、
「暗闇の灯」のなかから抜粋した、
『我々はどこから来たのか……』
について語っている場面です。
その舞台、信州松本の写真を添えて。





 「このあいだ妻と、街でやっていたアートの展示を見に行きました。ぼくら夫婦は古い人間なので、現代美術はほとんどわからない。けれどそのなかに、ぼくの目を惹いた作品がひとつありました。それは『光あれ』以前の世界を問うというものでした。『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』を見つめることこそアートだと思う、とその作家は書いていました。それはクリスチャンのぼくにもわかる言語でした。
 
 『絶対的なもの』について、ぼくは近頃よく考えます。日本人の生き方を考えていたとき、そのことばが鍵として思い浮かんだのです。絶対的なものとは何でしょう。決して揺らがないもの、いつまでも絶えることのないもの、すべてを判断する基準となりうるようなもの。そのようなものがこの世にあるでしょうか? 

 『あのひとはぶれない芯を持っている』という表現をきくことがあります。けれどひとのなかに、そのような絶対的なものがあり得ましょうか。決して揺らがない核のようなものが?

 ぼくは、ぼくの自分らしさをいかに追及していったところで、そこには醜いものしか現れない気がする。それはぼくが凡人だからかもしれないが、果たして自分のなかに、肉の体や魂に、絶対的なものが見いだせるものでしょうか。ひとは死ぬではありませんか。自分がどこから来て、何者で、どこへ行くのかもわからぬ人間に。




 ぼくは都会に住んだことがありません。日本でもアメリカでも、ずっと星の光が遮られぬところで生きてきました。空の星の位置は季節とともに移ろいます。けれども北極星だけは、常に同じ位置にあります。そういう意味で言えば、北極星は移ろう、相対的な星々のなかにあって、唯一絶対的な星なのです。
 
 (とはいえ北極星でさえ完全に真北にあるのではなく、歳月とともに入れ替わってしまうのですが) 

 むかし、アメリカ南部の農園から奴隷たちが北を目指して逃げたとき、目印にしたのがこの星でした。北極星は進むべき道を示してくれるのです。

 ぼくにも北極星がある。揺らぐことのない一点が。イエスキリストがそのひとです。イエスこそがぼくの芯であり、絶対的なものです。すべてが揺らぐとき、なにも頼れるものがないときも、イエスだけはしっかりとそこに立ち続けてくださいます。



 経済は崩壊し、政治は堕落しています。この肉体は日々老いていきますし、ひとの心ほど不安定なものもない。名声は不確かだし、いくら教養を積んだところで、行き着く先はむなしい。いつどこで放火事件や殺傷事件に会うかわかりませんし、日本が隣国から侵略される可能性だってある。糸魚川静岡構造線上に住んでいるのですから、地震からは逃れられません。この世に確かなものなどありますか。だからこそひとは言うのでしょう、この世に絶対的なものなどないと。

 『絶対的なもの』と言ってもわかりづらいかもしれない。では、信じられるもの、と言い換えてみましょうか。信ずるに値するもの。揺らぐことのない確かな土台。

 信じられるものが無い生き方、絶対的なものがない生き方というのは、碇のない船のようです。波に揺られ、風に吹かれ、安定することがありません。羅針盤もなく、位置を知らせてくれる北極星もないのであれば。きっとそれがこの世界にいる大抵のひとの生き方でしょう。ぼくだって偉そうなことは言えません。いまのはキリストに出会う前のぼくの生き方のことですから。

 ほかの舟たちが波に揺られ、漂っていく時代に、イエスキリストという碇を下ろして生きるのは並大抵のことではありません。揺らぐことのない絶対的なものを持っているひとは、目立ちます。目立つだけならよい、時として迫害されることもあります。ぼくの背負う事情はもうみなさんご存知のことでしょうが、そのすべてはぼくがキリストを絶対的なものと定めたから起こったのです。



 この世でうまく生きていきたいのなら、碇を下ろさず漂えばいい。行き着く先は保証できませんが。キリストに従ってひとびとに憎まれるぼくの生き方は、きっとその目に愚かと映ることでしょう。そしてたしかに愚かかもしれない。けれどぼくはこの世から愚かだと思われようと、永遠に揺らぐことのない神に従いたいのです。この世はイエスを憎みました、だからイエスのものであるぼくも憎まれて当然ではありませんか。

 つい先日、ぼくは一族の菩提寺で、抜魂式とやらに出なくてはなりませんでした。妻は連れていかずに、ひとりで行きました。ひとりの方が耐え易いものもあるのです。ああいった場でぼくがどんな言葉をかけられるか、あまり再現したくはありません。また妻を傷付けることになりかねませんから。そのときに主に示された言葉は、右の頬を打たれたなら左も差し出しなさい、でした。

 しかしぼくは親戚から罵られながらも、嬉しかった。ふつふつと沸き上がる喜びがこころに満ちました。キリストのために罵られ、迫害されるとき、喜びなさい、大いに喜びなさいと聖書は言います。天の国はあなた方のものだからと。



 そうなのです、ぼくが生きているのはこの世の命ではないのです。ぼくは聖霊によって神の国を生きているので、この世を生きているひとびとには理解されないのです。封建的な世界観に生きる親戚からすれば、ぼくのような人間は迫害してしかるべしなのです。

 『もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである』
 
(ヨハネの福音書15:19) 

 ここにゴーギャンの問いへの答えがあります。我々は神のもとから来て、我々は神の子であり、我々は神のもとに帰っていくのです。神をその心で知っているひとびとは、みな胸を張ってそう言えるのです。この世は仮の宿に過ぎない。



 それは教理問答カテキズムで教えこまれた答えではありません。ぼくは仏教の家に生まれた人間ですから。ぼくが神のものであるという自覚は、植物のように生えてきたものなのです。付け焼き刃はいつか落ち......」

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