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【番外編】山形からのお便り

今回は番外編で先日山形が故郷の方から伺って興味をもった話しをいくつか紹介していきます。地元の方の間ではメジャーな話なのかもしれないが、私にとってはどれも新鮮で魅力的でした。
①服部敬雄
山形の首領(ドン)、果ては服部天皇と呼ばれる御仁がかつて山形にいた。
彼の名を服部敬雄(はっとりよしお)という。
日本史のお話しかなと思う方もいるかもしれないが、そうではない。
この人物を人々は称え、そして揶揄し、そう呼ばれたという。先程「かつて」といったが、それほど昔の話でもない。1991年に亡くなったというから、歴史上の人物というにはあまりにも最近の話しなのだ。
正直、首領(ドン)は日本中そこ彼処にいたかもしれないが、”天皇”はそうそういないだろう。何が彼を”天皇”と呼ばしめたのか。何をやったのか。どういう人物だったのか。表の顔と裏の顔、良い面・悪い面、表沙汰になっている事の方がひょっとすると少ないかもしれない。ただ、公然の事実となっている彼という人生の中でやはり心惹かれるのは数々の逸話であろう。例としていくつか見ていく。

・奥田民生がボーカルを務めるユニコーンのアルバムの「服部」に収録される「服部」という曲は、メンバーの1人の地元が山形であり、服部の支配への皮肉の意味が込められていた。が、山形新聞社グループの力を使って山形県内全てのレコード店から「服部」を買い占めて、店頭に並ばせなかったという。
・忍者ハットリくんが打ち切られたのは、名前が気に食わなかった服部のツルの一声。
・現在では東北四大まつりの一つにされている「山形花笠まつり」は服部の発案で始まった祭りである。かつては初代山形藩主・最上義光を祭る「義光祭(きごうさい)」が開かれていたが、これに代えたものである。祭り期間中ゲストとして歌手が呼ばれ、山車行列をするが、服部が陣取る貴賓席の前に来ると、ゲストは山車から降りて服部に頭を下げて挨拶することが恒例であった。今日でも、同まつりを「服部まつり」や「山新まつり」と揶揄する者もいる
・服部の没後、グループ企業と自己の権威を保持するためにそれらを阻止し続けていた全国チェーンの大手コンビニや日本マクドナルドがようやく、「東北最後発」で進出した。

等々、ここで挙げた以外にも数々のエピソードがあるがきりがない。。
山形以外にもこういう人はいたのだろうが、やはり実際にこういう話しに触れてみると恐怖感すら覚える。が、やはりどこかそれ以上にどこか、そう、憧れにすら近いものも抱いてしまう方も少なくないだろう。

②いちまる、いちかっこ
①②や(1) (2) は「まるいち」「まるに」、「かっこいち」「かっこに」と言うと思うのだがいかがであろうか。これを山形県では、「いちまる」「にまる」、「いちかっこ」「にかっこ」と言うのだそうである。このような言い方は山形県限定のものらしい。確かに、書き順で言えばこちらの方が正しい気もする。ただ、昔から馴染んでいるのは「まるいち」「かっこいち」だろう。少なくとも道理の面では山形の方に軍配があがる気もするが。
山形だけこのような言い方になった理由は見つからず・・ 何故なんでしょう。

③本間家
”本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に”
なんて言葉が残る程に栄華を、地位を手にした一族がかつていた。

本間家はもともと関東の武士だったが、上杉景勝に反逆したため滅ぼされるが、一族の中には上杉方に味方したものもいた。彼らは会津に国替えとなった上杉家に付き従い、その中で酒田に移り住んだ一族は武士の身分を捨て、江戸時代に商人となった。本間家は、初代より「弱者救済」、「地域貢献」の精神が受け継いできた。
庄内藩主である酒井家は圧倒的な経済力を誇る本間家を何度も頼りにし、本間家もまた忠実に応えた。資財を投げうって海岸に防風林をつくったり、酒田港に灯台を設けるなどした。さらに飢饉に備えて米を大量に備蓄して、のちに多くの領民の命を救った。

一方で人情の機微にも敏感で、家臣たちに妬まれることを警戒し役職を退ぐ事も厭わなかった。その後も本間家は藩と協調し、財政再建や農政改革などに尽力し続けたという。
明治時代以降も本間家は地方財閥として栄えるが、戦後の農地改革解放で所有したほとんどの土地を失った。

武門の鑑と称えられ「義」の精神をた上杉家の元家臣という誇りがそうさせたのかもしれない。

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今回はこれにてしまいとします。他の地域にもそれぞれ面白い話しがある事でしょう。またいつか他の地域の事も調べてみたいと思います。

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