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若いうちは桜を見て今後幾た度も見られると思うものだが、桜をまじまじと見る事など実際は十度もあるかないかよ

最近読んだ「へうげもの」というマンガでこの台詞が妙に響いた。まさにその通りだと思った。私もまもなく30年という一つの区切りに至るが、その間どれだけ桜をきちんと見ただろうか。「花見」という催しには、何度も参加したが、そこで実際に桜を愛でることなどまずない。

桜が咲いて思うのは
「もうそんな季節か」
だいたいがそんな所だろう。

ここまで書いた私、ここまで読んだあなた。きっと今度の桜はちゃんと見ようと思うだろう。綺麗な桜が咲いている事を心の底から喜び、今まで見過ごしてきた分まで取り返そうと躍起になって見ようと思っている事だろう。今日の夜布団に潜るまでは。

明日になれば、またいつもと同じ日常に後戻りする。
桜の事など頭の片隅に追いやって、毎日を生きる。
そしてそれは普通のことだ。
間違ってなど決してない。

桜を見なくても明日を生きることは出来る。

でも、そんな未来が嫌だった。

問題なのは、桜を見ない事ではない。
またいつでも同じものが見れるだろうという未来への油断だ。
明日も明後日も、来月も来年も。そのまた何年か先も、同じ事が繰り返されるだろうと考える過信だ。

『「僕はずっと山に登りたいと思っている。……でも明日にしよう」 おそらくあなたは永遠に登らないでしょう。』

この言葉からも、どれだけ気持ちがあったとしても、実際の行動には遠く及ばないという事が分かる。


「あの映画面白うそうだな。」そう思っても、幾度となく結局観る機会を逃してしまった事がある人も少なくないだろう。

だから、今日梅を見に行った。


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