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映画『エゴイスト』 これが愛でなかったら何が愛なのか

※ネタバレありです。ご注意ください。

映画 『エゴイスト』 をレイトショーで観た。帰り道、車を運転しながら不意に涙が出てきた。
何故だかわからないけど、「愛だよ、愛。これは愛だよ。」と言いながら、ハンドルを握っていた。どうしても涙が止まらなかった。

愛っていったいなんなんだろう。
たぶんその答えは一つではないし、答えなんて無いのかもしれない。

では 『エゴイスト』 の主人公、浩輔の愛は何なのだろうか。あれはただのエゴなのか?
いや、そんなことはないと思う。あれは愛だ。
あれが愛でなくて何が愛なのか。
あれは愛そのものだ。



映画 『エゴイスト』 久々に心が持っていかれた作品だった。
いまだに頭の芯が痺れたままである。この私の中に残っている熱さを書いておきたい。

『エゴイスト』。これはエッセイスト高山真氏の自伝的小説がモデルになっているという。私は原作を未読なので、この映画を斎藤浩輔(鈴木亮平)の物語として観た。
まず、これは物語でフィクションだ。俳優の彼等は与えられた役を演じている。
そう思って観ていた。
しかし、途中からそうとは思えなくなった。手持ちカメラで撮っているせいもあるのだろうが、生身の人物たちをすぐそばで見ているような気分になった。
ドキュメンタリーのようだから、ふわふわした生やさしいものばかりが見えているわけでは無かった。浩輔の生活を、浩輔の愛を、浩輔の心や全てを、覗き見しているような気持になった。
しかしそれは、居心地の悪いものではなかった。
とても微笑ましくて美しくて、愛おしく、切なくなるような姿だった。そして、浩輔はそこに実在していた。
それほどまでに鈴木亮平は浩輔だった。
そして宮沢氷魚は龍太であり、阿川佐和子は龍太の母だった。

観終わった後、浩輔の気持ちが胸に刺さりすぎて、どうしたらいいのかわからなくなるほどだった。

浩輔は生まれ故郷を嫌い、父親とも特に関係を深めることなく生きている。
学生の頃の浩輔はゲイであることを理由に傷つけられたが、今はハイブランドの服を鎧にして街を闊歩し、好きな仕事をし、たくさんのお金を稼ぎ、高層階にある眺めのいい部屋で、豪奢な家具に囲まれて暮らしている。
ソファでくつろぐ浩輔の目の前にあるのは、大きな現代アート。あれだけのパワーがある作品を前に日々過ごすことができる浩輔は、あの強烈な作品に負けないだけの強さと個性を持っているのだろう。
彼は買いたいものを買いたい時に好きなだけ買って、週末を楽しく過ごすゲイの友達にも恵まれている。自分が選んだ美しいもの、愛すべきものに囲まれ、自信を持って生きている。
彼は何もかも持っている、ように見える。

でも、持っていないものもある。

浩輔は14歳で母を亡くし、相手に不自由しているわけではなさそうだが、特定の恋人もいないのだろう。
そのことを不満に感じるほど寂しくはないけど、心の底には孤独を抱えている、そんな風に見えた。

その浩輔に愛をあげたのは龍太だった。
龍太はお金がなく、母親と小さなアパートに住み、貧しい暮らしをしている。
好きな仕事をしているわけでもなく、生活のために体を売っている。まだ10代のうちから。
トレーナーになりたい夢はあるが、実現できる未来は見えない。
体を対価に心を削り、病気の母親を支えて暮らしている。

でも、龍太は美しい心と美しい体を持っていた。
その二人が出会った。

二人の目の動きを見ているだけで二人が恋に落ちていくのが分かった。
瑞々しい恋の始まり、相手を欲しい気持ち、愛おしいと思う気持ちが伝わってきた。
浩輔と龍太の間には確かな愛があった。
観ているこちら側が気恥ずかしくなるような、そんな熱烈な愛だった。

外で手を繋ぎたくても、人目を気にして繋げない。でも少しだけ触れ合う手と目線。
龍太の家で、母親の目をかすめてそっとかわすキス。
「浩輔さん俺のこと好きでしょ」と聞く小悪魔のような美しい龍太。
龍太の髪をかわかす浩輔の優しい手つき。
ワインを飲みながら浩輔の姿を動画で撮る龍太。
疲れてうたた寝する龍太を見つめる浩輔のまなざし。
そして愛を交わした後にソファに二人で並んでコーヒーを飲む姿。

心も体も満たされていく二人はとても美しかった。

持っているものを惜しみなく与え合うのが愛の一つの形であるなら、浩輔は愛とお金を龍太に与え、龍太は愛と家族を浩輔に与えた。

お金と家族、どちらが上なんて比べる必要はない。
二人はお互い持てるモノを与え合う、対等な関係だったのだ。


どんなにお金を出しても心までは買えないことを誰よりも知っている龍太は、最後には体も心も浩輔に捧げたのだと思う。

体を売ることをやめ、肉体労働に励む龍太の美しい手は荒れ、肉体も消耗していく。
浩輔が何度クリームを塗っても、龍太の手はまた荒れるだろう。
そして、仕事に疲れ果てて眠る龍太を見守る日々は続いただろう。
そのたびに浩輔は自分の選択が正しかったのか、自分の愛はエゴなのではないか、自分の心に問うただろう。

それはエゴかもしれない。
それでも、母親にきちんと自分の仕事の話が出来ると語る龍太の表情は明るかった。
浩輔のエゴは龍太の心を救っていたのだ。

そして、龍太は浩輔に愛と家族をくれた。
龍太の愛を得た浩輔の満ち足りた表情は、ハイブランドの服を身にまとっている時よりも美しかった。
しかしそんな二人を不幸が襲い、龍太は浩輔の前からいなくなる。

龍太がいなくなった後、浩輔は病気がちな龍太の母に愛を注ぐ。龍太ができなくなってしまったこと、そして自らが母親に出来なかったことを龍太の母にするのだ。
これもまたエゴなのかもしれない。


でも、浩輔のエゴは確実に龍太の母をも救った。

龍太の死後、最初に浩輔が彼女のアパートを訪れた時には玄関の寄せ植えが枯れ、台所の電球が切れていた。
浩輔はそんな彼女に援助を申し出る。ここの二人のお金をめぐるやり取りは、それこそ生々しいものだった。龍太や龍太の母の尊厳を守りたいながらも援助したい浩輔とそれを断り続ける龍太の母。最終的には、彼女が折れる形になるけれども、そこを見てほっとした私は、浩輔と同じ思いになっていたのだろう。

その後、浩輔は彼女の家を訪れて寄せ植えを新しいものに植え替え、灯の付いた部屋で龍太の母と時間を過ごすのである。浩輔は、経済的にも息子を亡くした喪失感を埋めるためにも龍太の母にとってかけがえのない人となっていく。

そして同時に浩輔にとっても、龍太を亡くした喪失感を埋めるために龍太の母が必要だったのだ。
龍太の母と浩輔は一つのお皿に盛ったおかずを躊躇うことなく食べる。それは家族そのものの姿でなくて、なんだろう。

ここでも二人はお互い持っているものを惜しみなく相手に与えたのだ。

「僕は愛がわからない」 と言う浩輔に対し、龍太の母が 「私たちはあなたから受け取ったものを愛だと思ってるから、それでいいんじゃない?」 とさらっと言うのだが、この言葉がこの作品の肝だ。

そして、このセリフがこれからの浩輔を支えていくのだろう。
映画のラスト。死期が近くなった彼女が浩輔に「もう少しそばにいてほしい」と、初めてわがままを言う。私はその時二人が家族になったのだと思った。

彼女のベッドの枕元には、かつて浩輔が龍太にあげたジャケットを着て微笑む龍太の写真が置いてあり、そして目の前の浩輔はその同じジャケットを着て彼女に微笑む。

彼らは母と息子であり、家族であった。
そして何よりも龍太がそれを一番喜んでいるだろうなと思った。
龍太を失った母親を救ったのは、紛れもなく浩輔の愛だったから。


それでは、余命いくばくもない彼女がこれから浩輔の前から姿を消してしまうであろう時、浩輔はどうなるのだろうか。
これから一人残されるのであろう浩輔のことを思うと胸が苦しくなる。

でも、きっと浩輔を救うものは、それも愛なのだと思う

龍太の体がなくなっても愛は残る。
龍太の母の体がなくなっても愛は残る。
肉体という触れられる、目に見えるものがなくなっても、愛は残る。
二人が残してくれた愛は浩輔の中に確実に存在しているし、これからも残り続ける。
そして生きている浩輔は、二人を愛し続けることができる。

浩輔は二人がいなくなった世界を一人で生きていかなければならない。
だけど、彼の中には龍太が残っている。そして龍太の母も。
二人の愛があれば大丈夫、なんてお気楽なことは言いたくない。浩輔の喪失感がそんなに簡単に解決することだとも思わない。

しかし、その愛が浩輔を支えていって欲しいと、心の底から願うのだ。

そして浩輔の父(柄本明)が亡き浩輔の母のことを語った 「出会っちゃったのだから仕方ない」 という言葉も浩輔を支えて行くのかもしれない。
これは文字に書いたものを読むと一見冷たいように見えるが、浩輔の父が語るそのセリフは深い愛情に裏打ちされたもので、心の奥に届くものだった。
浩輔にとって龍太や龍太の母と出会ったこと、それは仕方のないことで、二人は浩輔の一部となって生き続けるのだ。


私はこれから自販機で小銭を拾うたびに浩輔と龍太を思い出すだろう。
龍太のはにかんだような笑顔とそれを見つめる浩輔の幸せそうな表情を。


この作品を観る方には、パンプレットの購入をお勧めしたい。
児玉美月さんのReview『「エゴイスト」が到達した愛の深淵』の内容が素晴らしいからだ。
日本のゲイ映画がたどってきた道(冒頭に『劇場版おっさんずラブ』や『his』など各作品を羅列)やその問題点、今作がもたらすものを表しているだけでなく、作品の場面からテーマを紐解き、愛についての深い考察が示されている。

企画・プロデュースを担当された明石直弓さんの Production Note にはこの作品ができるまでの過程が丁寧に描かれており、キャストスタッフ含め全員が真摯にこの作品に向かったことがうかがわれた。

また、松永大司監督のインタビューからは撮影時のエピソードやキャストに対する思い、印象的なシーンの裏側や演出に込められた思いが真摯に伝わった。
鈴木亮平、宮沢氷魚のインタビューも含め、キャスト・スタッフ全員がこの作品を慈しみ大切に作ってきたことが伝わるパンフレットとなっている。


ここで、私の推し作品である 『おっさんずラブ』 に絡めた話をすることをお許しいただきたい。

『エゴイスト』 を観た時に、そのあまりの生々しさに既視感を覚えた。それは 『おっさんずラブ』 を観た後に感じたものと同じだった。
『おっさんずラブ』 は 『エゴイスト』 同様、ゲイの青年が登場するラブストーリーだが、趣は180度違う。荒唐無稽なドタバタあり、コメディ多めの作品である。

『エゴイスト』 とあのドタバタした作品を比べるなんて……と思う向きも多いだろう。時代への感度、作品の方向、製作陣の意識など、両者のレベルが全く異なっていることは百も承知だ。
だが私は 『エゴイスト』 のドキュメンタリー感から 『おっさんずラブ』 の春田(田中圭)と牧(林遣都)のシーンを思い出したのだ。
あのバタバタした作品の中で、春田と牧のシーンだけはやけに生々しかった。
二人が思いのたけをぶつけあうシーン、愛を伝え合うシーン、そして映画エンディングのキス、どれもがまるでドキュメンタリーのようだった。
それらのシーンがあるからこそ、私はいまだに 『おっさんずラブ』 が好きなのだ。そしてあれを超えるラブシーンにはあれ以来出会ってなかった。

そこに来たのが 『エゴイスト』 だった。

冒頭でも書いたが、この作品の浩輔と龍太は本当に愛し合っていた。
春田と牧に感じたのと同じ本気の愛を感じた。これは私には驚きであったし、だからこそこの作品に惹かれた。

改めて素晴らしいキャスト、そしてキャスト同士の相性が生み出す奇跡を感じた。

ちなみに 『エゴイスト』 では、役者の生の感情に任せるためにカメラを長く回し、生の言葉を引き出すような演出をしているそうだ。
演者の生の感情に任せる手法は、『おっさんずラブ』 撮影時にも取られていた。だからこそ、既視感を覚えたのだろうと思う。


『エゴイスト』
多くの人に見て欲しい映画だ。私も既に2回見ているが、あと数回見てみたい。サムソン高橋さんの優れた劇評も貼っておきたい。


最後に浩輔を演じた鈴木亮平さんの言葉を紹介したい。

『きっと間違いも正解もなくて、観た方それぞれがそれぞれの感じ方で感じて』いいのだと思う。

思いが強く、長文になってしまった。
どうか一人でも多くの人(特に男性)がこの映画を見てくれることを願っている。

と、ここまで書いてからおよそ3カ月経ってしまった。
その間、この映画を何度も観て、原作も読んだ。
映画とは異なり、原作からは「エゴイスト」という言葉のイメージがもう少し強く出ている気がした。

ともあれ、この映画は本当に素晴らしかった。
忘れられない作品となった。

この作品を作ってくださった方に感謝の思いをお伝えしたい。
ありがとうございました!

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