わたしがいない場をつくる (5/9)江本
今思えば、ゲストハウス立ち上げでいちばん大変だったのはわたしには見える風景をチーム内で共有できないことだった(それに加えてそこまでの道のりをデザインし、交渉することも)。
他のひとにはそれが見えなかったことに気がつけなかった。
よく遊びに来る小学生が、10年後にシーナと一平でアルバイトしている姿。東京でも池袋でもなく「椎名町(Sheena town)」目掛けて来る観光客。
そんな、立ち上がってくる風景を言語化することを怠っていた。イラストが描ける訳ではなかったし、数字の説得力もわからなかった。
だって、こんなに見えているのに!どうしてわかってくれないの!
って本気で思ってた。…あ、言語化っていうか、ビジュアル化するの忘れてたのか。ということに気がついたのは最近です。
共有を怠っていました、はい。
みんなに見えているものとわたしが思い描く景色は全然違う。どうやら、未来の物語が景色になって見えないらしい。それはひとつひとつ、擦り合わせることでしか埋められない。
文章だけではだめ。絵だけでも、図面だけでもだめ。だってそこには常に物語がある。そこに生きるひとたちがいる。それを思うだけで2Dが3Dになって4Dになるってこと、伝えられていなかった。
さて、そんなこんなで、いっしょに場をつくろう!という話が出てからずっと「堀下がいない場」を描いていました。なんなら、わたしもその場にはいない設定でした。でもそれを一度も伝えたことがありませんでした。だからこそこういう場にしたいああしたいを話している時にちょくちょく出てくる「それはコミュニケーションで埋められるんだ」っていうのがいまいちぴんと来なかった。いや、その言葉自体はもちろん理解しています。それは普段は息を吸うようにやっていることです。
不便さはコミュニケーションの始まり
少しだけ行動してもらったり、不便さをちょっとだけ強いたりする、そんなデザインをしれっとするのがわたしたちのお仕事。
たとえば、交流イベントの後片付けは参加者にも手伝ってもらう。
たとえば、コワーキングが長期休みの時は会員さんにゴミを捨ててもらう。
そんな小さな仕掛けが、いつか当事者意識になることを知っています。
逆に、このひとを紹介する! とか「こんな事例探してるんだよねー、なんかないかなー」なんて相談には全力で、丁寧に、こんなに?! と言われるくらい尽くしたりする。いちばんは、目の前にいるあなたの今と未来が少しだけ心地よくなることだと思っている。
でもそんな、行動をデザインするだれかが常に「いないといけない場」からは、なにも生まれなくない? いつだって、場を豊かにするのは「ここにいたい!」っていうエネルギー。
属人的にならずに、でも場の持つ価値は常に変わらない。それはハードの設計で叶う部分も多いと踏んでいます。だからこそたくさん実験したい。
ああ、でもほんと擦り合わせないとわっかんないもんなんだなぁ、お互いの思い描くものって。っていう久々の学びでした。
「場を持つ」って簡単に足枷になっちゃうし、いちばんコスパ悪いことだけど、いっちばんたのしいことだと思ってる。場所がわたしを自由にしてくれることの方が多いんだってことを、証明したい。
今の時点である程度答えは持っていて、そこに当事者の出入りしかなければ簡単に解決することだと思っている。それはどこから構築したらいいかしら。当事者ってだれかしら。それを生むのはやっぱりカルチャーかしら。
そんなことを考えていたらまた時間を忘れるのでこの辺にします。
つくばにいらしてくださった方にコーヒーでもご馳走するために使います!