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眠れる女 #6/6

オレたちが到着してから三十分ほどしてごま塩頭の小柄な人の良さそうな初老の青シャツがくぐり戸を潜って現れ手にしたボードを限界まで引き離してメガネ越しに覗き込みながら読み上げた氏名はしかし部長のでもオレのでもましてや次長のでもなく、すると一等暗い隅から野太い声が「あい」と返事をして手を挙げそれを認めて青シャツは「いやいやお待たせしましたね!」と場違い過ぎる愛想のよさで破顔しながらその円陣へ駆け寄った。よくしたもので聞き耳立てる者らへ話の内容はいっさい漏れ伝わらず固唾を飲んで構えるオレをよそに部長は窓の下枠に腰掛けいよいよ没しようとする日輪になずむ街景色に見入って心ここに在らずと見える。調書を取るものだろうか鳩首して熱心に話し込むようで青シャツがしきりに頷いたり首を捻ったりしていていかにも長丁場になる気配があって、この初老の青シャツひとりでこの場を切り盛りするとなればオレたちより前にまだ一組先客のあることでちょっと途方に暮れかかる。ところがしばらくもしないで七三分けの痩躯の青シャツが現れて先客のほうへ黙礼して歩み寄りほとんど同時に歳の頃は部長とそう変わらぬであろう五分刈りのがっちりした体躯の大男がその背後にぬっと現れてこちらは躊躇いもなくオレらのところへ直行して、や、遠路、ご苦労様です、と言って一礼するなり着座し部長にも椅子に座るよう目でうながしたが有無を言わさぬ凄みは隠しようもない。

名刺交換をしながらの通りいっぺんの挨拶のあと親族がまだ遺体と対面していないのに職場の関係者に先にご確認いただくのもどうかと五分刈りの青シャツが言い出してそれもそうだと部長もオレも苦笑い浮かべていると、くぐり戸の軋む音がか細いながら長々と尾を引いて見れば髪の長い女が視線の先に立っており、オレがギョッとしたのも道理、その黒い長髪は視界に入るなり二日前の朝から突如としてオレの部屋に居候し始めた眠れる女を彷彿としたからで、女はこちらに俯いたまま顔を上げずオレは幽霊と疑わずほとんど叫び出しそうになったがここで間髪入れず部長が「やぁ、これはこれは、奥様じゃないの」と誰にともなく言い、それを受けて五分刈りの青シャツも「ああ、ナイスタイミング」と受けてようやくオレもそれが次長の別れたくとも別れられなかった戸籍上の妻であると知るに至るのだった。

遺体は一見して綺麗だった。首から上ばかりを見せられてこの人はこんなに頭の大きな人だったかと感想するくらいなもので、そうであればなおさら白布に覆われた首から下の状態が忍ばれもするのだったが、部長は数珠を手に黙然として目をつむり次長の細君はすっと台車に歩み寄って見下ろして眠るようにしか見えない次長に向かって何やらどろどろと浴びせかけ、これはちょっと見てられないとオレは目を背けたのだったが、そのときなぜかオレはこの黒髪の年増と寝るだろう寝なければならぬだろうなどと妙な予感に苛まれもした。

警察署での諸々が滞りなく済んで会社への連絡もしまいようやく解放されたとなったとき部長は警察署の建物表玄関の階段をゆるゆると降りつつ伸びをしながら「やれやれ、美味いものでも食おうじゃないか」と聞こえよがしに言い、すると数歩うしろに控えた次長妻が「行きましょ行きましょ」とはしゃぐように唱和したのはいかにも場違いながらそれ以上望むべくもないやりとりとも感じられ、オレらは折よく来たタクシーに乗り込むと部長は一言「いざ、中洲へ!」と運転手に命じてオレもなんだかにわかに内にワクワクするものを感じないでもないのだった。

さてもうどこでどう飲んだものやら、哄笑するやら怒鳴るやら、泣くやら喚くやら、時折人様の笑い声が聞こえてやけに調子づいてくるじゃないかと自分で自分を俯瞰しながら、ああ今オレ吐いてる、吐いてるがカバンは持ってると理性はかろうじて貴重品の確保にばかり集中して、ふと気がつくと部長の姿は見えず肩を貸すのはほかでもない次長未亡人で、あれ、あんた、なんだぁ〜と言いながら腕を引き寄せると抵抗なく頬を寄せてきて、ああ、あんたみたいな部下を持って、あの人もだいぶん苦労だったろうねぇなどと耳打ちしてくるものだから、今からホテル行きますでっしょと言うと、よしよしと頭を撫ぜられ宥められたのにはちょっと酔いの覚める心地がしないでもなかったが未亡人はタクシーを停めオレを押し込み自分も乗り込み、さてはよほど酒が強いか合わせるフリしてこちらに呷らせたかいずれにせよなかなか腹黒い女だと勘づいていると不意に口を吸われ舌を入れてきて股間をまさぐり始めたのには驚いた。

あれほど疲れ知らずで交わり回数を重ね心ゆくまで放出する夜をオレは生涯味わったことがなかった。オレはまたかつてない深い眠りに落ちてゆき底に行き着いて目を覚ますとまったき暗闇でオレは自分が失明したものと信じかけたがやがてだいぶん離れたところにぽっかりと日が差すようで陽だまりに床が延べられて誰かが寝ている、こちらに背を向けて横向きに寝ている、眠れる女だと呟くとその呟きが直接オレ自身の耳元で囁かれたように間近に聞こえ横向きに寝ているのはほかならぬオレで。
「親父はこうしていつも背を向けて寝るな。不満でもあるのかな」
「いいえ、この人は右胸を下にしないと眠れないタチなのよ。あなた、息子なのにそんなことも知らないの」
「知らねえよ、親父のヘキなんか。しかしこれはいよいよ寝たきりなのか」
「まさか。この人の枕の下にこんなものが」
「なんだよ、これ。いい歳こいて、気色悪い」
「あら、でもこれ、あなたがバイト先で老人の皆さんに配ってるんじゃなくて」
「そんなことしねえよ。誰だよ、そんなこと言ってるやつは」
「あら、近所じゅうで評判よ。バイトのお兄さんが、年寄りの男の客にはお好みのエッチなDVDのパッケージの表と裏をカラーコピーして土産に持たせてるって。そんな人助けの仕方もあるのかと、皆さん感心していらっしゃる」
オレは身を起こそうとするのだが軀体はうんともすんとも言わない。というかオレの意識は陽だまりを俯瞰する位置にあってオレとされた横臥する老体とは交渉がない。しかしなんだってオレの蔑んでいたビデオ屋のアルバイト店員の貧血野郎がよりによってオレの息子なんだ健康であればほかに言うことなんて何もないと誕生の瞬間は手放しで喜んだはずなのに出来が悪いとなるとまさかこんな形で運命のしっぺ返しを食らうとは思わなかったと天を呪い妻を悪罵しほかならぬ己を恨む、思えばオレも若いときはボンクラだったと悄気て人生に何を期待していたのだとせせら笑うのはほかならぬ俯瞰するオレでそれなら何もしないのがいいのだ生まれず生きなければ死ぬこともないと真理みたいなことを嘯いてオレは声枯れるまで泣いて息子のその薄い胸をひしと抱く。ようこそ、生まれてきて。言ってやろう、今度こそ言ってやろうとオレは強く念じて意識を集中させるがあの老体と連絡しないどころか意識は段々に陽だまりから離れていくよう。聞けばビデオ屋も来月には店じまいするらしいじゃないか、おまえはこれからどうするんだ、オレらの年金をアテにしてもらっちゃ困るんだよ。親ガチャに外れたなんて言うな、悲しすぎるだろう。おまえが生まれてきてくれたことがオレの幸せの絶頂だった。おまえがそこにあることが幸せなんだなぜならおまえは母さんでありオレであり母さんとオレの愛の結晶……ってなんの話だよ。

スマホには二十件を超える着信履歴があってLINEの未読数は三桁に及んでいる。チラと見えた誰かのLINEの文言には、ほかならぬオレが猟奇殺人の容疑者筆頭として名前が上がっているのだと。任意聴取がどうのこうのと書かれていもしてオレには何が何だかわけがわからない。猟奇殺人とはなんのことだ。容疑者とはまたなんで。ふいに下腹が白々と明けるような悪寒がしてクライアントとの打ち合わせを失念していたのを遅ればせに思い出すのに似たやっちまった感に囚われそうになっていていやいや思い出すまいとかぶりを振ればそれは叶えられ、しかし昨夜はなんとも愉快だったじゃないか、妻もあんなふうに他人棒に乱れ狂うことがあるものかとなんだが嬉しくなってくる。ここは暗いが居心地は悪くない。オレの首から上を見て、眠っているようですね、などと陳腐なこと言う奴、どのくらいの人数に達するものかな。首から下を思ってみなさいよ。あのペテン師がすっかり煮込みにしやがって、捨てるところなんてないとかなんとかご立派なこと言ってね。骨まで愛してなんて歌があったがゾッとしないね。しかし死んではみたものの、この先どうすべきか途方に暮れるじゃないの。死んでも何にも変わりゃしない。とりあえずあと数時間もすれば福岡を発つわけだけど。このままオレは首に閉じ込められたままなのか。遊離したいよね、せっかく死んだんだからさ。焼かれたら遊離するって? おいおい焼かれるそのときはどうなんのよ。やめてよ、痛いとか熱いとか、こちとら大の苦手なんだからさぁ。ああ、そういやぁ、天童のあのでっかい飛車駒ね、あれだけは棺に入れて一緒に燃やしてくれないものかなぁ。あれは妻との新婚旅行で出羽三山を拝みに行った際、彼女がオレの人生がこの先永遠うまくいきますようにって買ってくれた、それはそれは大事なものなのよ。

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