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福毛

 私の左頬には小さなほくろがある。頬というにはだいぶん耳寄りの、頬骨よりなお後ろのほうにあるほくろである。ほくろと言っても、それと教えなければ妻でさえ気がつかないような、淡くて小さなそれ。

 これに毛が一本だけ生える。

 こういうのを福毛というらしいが、福毛の名の由来について問われても困る。それ以上は調べていないし、なんのかんのと詳しくなるのもこの頃では億劫なのである。

 気がつけば、左手がそのほくろに行っている。人差し指の先で撫でている。毛の生え始めに当たると、来た来たとなって、なんだか嬉しくなる。二、三日もすると一ミリほどになるが、ここは辛抱のしどころ。四、五日待つ。すると二ミリほどになって、太さも増す。そうなるといよいよ自分で抜きたくなるが、これは恋人とのスキンシップに取っておく。スキンシップどころではない、彼女との肉体関係のハイライトこそ、私にとって、ほくろのこの福毛を抜いてもらうことにあった。

 彼女は私に膝枕すると、初めは爪を立ててそれを抜こうとする。よくわかってらっしゃる。でも、二ミリかそこらの生え始めの毛は、そもそもつかみにくいし、稀に芯をとらえても、根がしっかりしているからそうたやすく抜けるものではない。そこで毛抜きのお出ましである。これを使えば一瞬で終わる作業だが、やはりここでも彼女は心得たもので、じわじわと力を増していき、根がかりの感触を楽しむような間合いを挟んでから、ぷんっと、これは私の頭のなかでする音にほかならないが、抜ける瞬間こそはたまらない快楽なのである。抜いた彼女もまた、毎度満更でもなさそうであった。

 近頃この福毛に白いものが混ざるようになった。生え始めに白く、根のほうは黒いようである。高校生の頃からちらほらと白髪の紛れるほうだったから、傍目には銀狐のような頭になってもそれで老いを意識することはなかった私が、陰毛や鼻毛に白いものが混じるようになると、さすがに体質とばかりも言ってられなくなった。そこへ追い討ちをかけるように福毛の白である。

「毛が気になるの」
 妻に言われて我に返る。知らず指先でそこをいらっているのだった。
「そうなんだ。ほくろに毛がね。知ってたんだ」
「よくそうやって触ってるから。わたしにも覚えがあるし」
 そう言って妻は顔の左側を覗き込んだ。
「あら、それ、宝毛じゃない」
「たからげ」
 福毛、と言おうとして、私は黙った。これを福毛というと教えたのは、恋人のほうであったから。
「単なるほくろの毛でしょ。こんなものまで白くなってきた」
「あら、それ白髪じゃないよ。光の溜め方が違うもん。ぜったい宝毛だよ」
 それは吉兆だから、無闇に抜かないほうがいい、と続けて妻は忠告した。

「それでは抜きましょうか」
 そう言って彼女は膝枕に誘った。頭を預けると、彼女に渡したのは毛抜きではなく、浅草はもり銀で買ったという純銀製の耳かき。
「どうしたの」
「これはしばらく抜かないんだ。珍しいから」
「ほんとだ。今度は白いのね」
「白いんじゃないんだ。光の溜め方が違うだろう」
 これは宝毛、と言おうとして口をつぐんだ。
「そうかなぁ」
 言いながら、矯めつ眇めつする。
「いいことありそうだね」
 彼女は銀の耳かきを、そっと耳のなかへ下ろしていった。彼女との肉体関係における快楽は、毛抜きに次いで耳かきが二番である。全身総毛立つ。思わず声が漏れる。
「すごいおっきいの、取れたよ」
 そう言って、その日最初の収穫物を見せつけてくる。

 あれ。
 朝食の卓につきながら、知らず左手をそこへやっていた。で、宝毛のなくなっているのを知る。慌てて手を引っ込めるが、今更もう遅い。しかし配膳が済んで遅れて席についた妻は、いっこうに福毛、いや宝毛のことに触れてこない。運良く気づかれなかったのか、知らないふりをしているだけなのか、この場合私にはもはや判然としない。知りようもない。平常心を装って飯をかき込むばかりである。

 妻も怖い。
 恋人も怖い。
 すべては自分の蒔いた種。
 福毛でなにもかも破綻するなんて、誰が想像できただろう。

 妻はいつもと変わらない。玄関まで見送りに来て、私に弁当を渡すときも、にっこり笑って「今日も、頑張って」と励ます。
「ありがとう」
 言って弁当を受け取るとき、わたしの視界に妻の手の甲がよぎって、一瞬釘付けになった。手の甲から毛が一本突き出して、玄関の明かり取りのすりガラスを通して差し込む朝の光を溜めて、虹色に輝くのを私は見逃さなかった。妻からは逆光で、こちらの表情は悟られなかったはずだ。そう祈るほかない。

「乗り遅れたわね」
 女の作る男声のような奇妙さだった。
 え、と思わず聞き返す。
 妻が微笑みを返す。
「乗り遅れるわよ、バス」
 そう言って、妻はいつもの朝のように、私に手を振った。

(1955字)

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