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じぇらしぃ #6/7

私は落ち目の作家。妻の日記を盗み読みする私は、妻が私の書斎に監視カメラを仕掛けたこと、書斎の閨事のいっさいをつぶさに知ることを知って驚愕する。私を盗み見する妻の日記を盗み読みする私は、最後の日付のそれを読むに至り……。

♯5までのあらすじ



 これは要するに日記の形を借りた妻の創作? とまずはなるわけです。それならそうと心得てほくそ笑んでいればよろしいんでしょうけど、日記の最後が昨日の日付で、それを読みながら、私はみるみる顔から血の気の引くのを覚えるのでありました。


四月……日
曇りのち晴れ。午後より風やや強し。
東京タワーデートを明日に控え、夫は今朝も上機嫌。ここ一週間は早寝早起きを心がけ、朝食前の散歩を欠かさない。公営の**公園まで足を伸ばすと、健康広場の遊具で懸垂やら腹筋やらを二十回ずつしてくるそう。男は色気づくとどうにも軀体を鍛えずにはいられないものらしい。せいぜい恥をかくがいいと心から祈る。

夕刻にT来訪。二日とあけぬ訪問。Tもこのところ上機嫌で、よく笑い、よく喋り、遠慮もせずによく飲み食いする。もとより落ち着いた声に艶というか張りというかが加わって、全身にうっすら光輝をまとうよう。ふつう人はこれを恋の兆候と呼ぶ。夫も作家の端くれ、この変化についてどう感想するのやら。あるいは夫をいじめることで生気を得るのではと一抹思わないでもない。このごろではいじめ抜き、いじめ抜かれた興奮のほとぼり冷めやらぬうちに夕餉をともにし、ワインを開けるなんてことも少なくなかったから、二人して乙に済ましてやり過ごそうとする様子がなんとも滑稽極まりない。こちらは師弟関係とやらの淫らな真実をつぶさに知る立場にあって、いつ鼻を明かしてやろうかとウズウズしているのでもある。夕餉の団欒中、不意に脈絡もなく声をわななかせてしまって、手のうちを勘繰られてもおかしくないようなものの、向こうは向こうで隠し立てに必死だからお互いチグハグでなんとも奇妙。こちらがどもったりうわずったりしても、二人は二人でしかつめらしく頷きなどしているのだから世話はない。

「あの人、迷惑かけてないかしら」
「とんでもない。今度も企画の目玉になりそうですわ。楽しみにしていてくださいな」
そういってTは夫の書斎に消える。
締め切りに間に合わず、原稿を落とさないほうが珍しかった昨年までが嘘のよう。とはいえ、わたしの知るかぎり、執筆が順調とはとても思えない。
たとえば。

「だからなんであたしがてめえみたいななめくじ野郎と東京タワーに行かなくちゃなんねえんだよ」「いや、もう、ですから、さっきから申し上げている通り、東京タワーもずいぶん変わったと聞いたものですから……」「誰に」「え?」「誰に聞いたんだよって……相変わらずジジイは察しが悪りいな」「すみません、あの、妻から」「じゃあ、あの尻垂れナスビと行ってくりゃいいじゃん」「尻垂れナスビ……」「ババアのことだよ!」「そうなんですけど、それも前々から申し上げている通りで、今度の小説のプロットが若い娘と初老の男の恋愛なもので、それならいっそ取材を兼ねてお若いあなた様と行けたらだなんて、ちょっと欲をかいちゃいました」「マスをかいた?」「いえ、欲を」「口答えしてんじゃねえよ、バーカ。てめえみたいなもんは死ぬまでマスかいてりゃいいんだよ」「はい」「はいじゃねえよ、さっきから、てめえ、ナメてんのかよ」「滅相もございません」「じゃあ聞くがよ、てめえマスかくとき、その短小フラグを中心に半径何メートルの世界をイメージしてんの?」「は?」「だから質問に質問で返すなって。胡桃なりに脳みそついてんだろうが」「あ、はい、あの、半径は……一メートル、いや、二メートル、このなめっくじじぃを座って見下ろせる今あなた様のいらっしゃるその椅子の位置こそは、そこまでの距離こそは、私の世界のすべてでございます」「それ、ほんと?」「はい、正真正銘のほんとであります」「うれしい……なわけねえだろ! マジ、キショいんですけど!」「ありがとうございます!」「てかさぁ、短小フラグの半径がせいぜい二メートルとは笑わせてくれるなぁ、オイ。それでも小説家かよ!」「ひぃ!」「小説家なら、世界中の女を孕ませるつもりでマスでもなんでも励めっつーの。日頃のイマジネーションの鍛錬がそもそも甘いんだよ。そんな了見じゃ、ジジイと小娘の恋愛なんか、ショボいパパ活程度にしかなんねえだろうが。誰がそんな半径二メートル程度のしみったれた世界観に金払うんだよ。東京タワーがそこにおっ立ってるわけだろ。てめえが広げるべき妄想の単位はまずメートルじゃねえだろうが。キロメートル、なんなら光年でしょうよ。わかります? 宇宙の喜びなり悲しみなりをかき集めて東京タワーをカオスで満たす。東京タワーを人類の祭具に見立てるくらいのスケール感で臨まなきゃ、とてもとてもてめえなんか、今後筆一本で食ってなんかいかれねえよ」

Tの来るたびに密室でこんなやりとりが展開され、挙句は踏まれたり、はたかれたり、簀巻きにされたりで、夫の執筆がはかどるはずもなく。暴露することの痛快さは痛快さとして、夫が書けないとなればやはり一家の死活問題だし、不倫も不貞も妻のわたしの手のひらの上にあればこそで、対価としての作品が生まれなければ恥辱に堪える理由など皆無。夫の成功を誰より願うのはほかならぬわたしで、だからこそ煩悶するのでもある。

今日こそは茶でも淹れた口実に書斎を不意打ちして現場を押さえてやろうかと思案していると、しばらくもしないでけたたましい音が立って書斎のドアが開く。部屋から飛び出したのはTで、顔面蒼白、歯の根も合わず、食卓に向かって座るわたしの肩にすがりついたかと思うと、そのままくずおれて、膝の上にうっぷして嗚咽した。
「なによ、どうなさったのよ」
「先生が、先生が……」
ここで迷わずTを押しのけて書斎に駆けこめばよかった。そうすれば夫は助かったかもしれない。それなのにわたしは、弱りきったTに追い打ちかけることの誘惑についにあらがえず、ずいぶんとハタからは取り澄ましたふうにスマホを開くと、隠しカメラ③の画面を表示して、するとそこに、事切れる間際の、無音で七転八倒する夫の姿が目に飛び込んできて、やがてはたと動かなくなるまでを見届けるに至った。ドア一枚隔てて距離にすれば五、六メートルしか離れていないところにいる夫を、はるか遠国にあるように感じていて、その遠さにわたしは絶望するようだった。不意に我に返ると、
「あなた、なにしたのよ!」
Tは泣き腫らした顔を上げ、かぶりを振るばかり。涙と鼻水とで顔はもうぐちゃぐちゃになっている。ここへ来てようやくTを向こうへ押しやると、わたしは書斎へ駆け込んだ。天井より吊るされた敷布団のロールの端から、夫の胸までの半身が弓なりに釣り出されるようであったのは、敷布団を支えるロープの輪っかのひとつがなんらかの弾みでずれて夫の首にかかって締め上げたからで、おそらくはTが敷布団の簀巻きに跨って例の「お馬さん」を興じていたさいに出来したアクシデントだったろう。一瞬のことだったはずで、ザイルの結び目の、首への食い込み具合を見るだけでも、それが起きたときにはもはや手の施しようもなかったのは一目瞭然。断末魔の顔は、おぞましくてとても直視に堪えるものではなかった。それが、究極の悦楽を味わい尽くしたとでもいいたげな狂い咲きのおぞましさゆえに、なおのことタチが悪い。

不思議なほどわたしは冷静だった。泣きやまぬTを尻目にKの個人ケータイに電話する。折り返し電話があって、事情を告げると、これからそちらへ向かう、二時間以内に到着するだろう、警察へは連絡しないようにと指図される。果たして九時前にK到着。玄関に上がり込んで若草色のスプリングコートを脱がぬまま書斎へ直行し、ややあってから二人を招き入れ、あれやこれや事細かに尋問するあたり、さながらベテラン刑事のよう。長身の優男の、手際よく事を進めていく一連の様子を他人事のように眺めるうち、不謹慎とは知りつつも、ときめきをどうにも抑えきれずにいるわたし。仮に事故死であったとしてもスキャンダルは免れないと主張するKは、これはTと(なぜか)わたしを守るための苦肉の策なのだとやおら手にしたホームセンターのロゴ入りレジ袋の中身を床にぶちまけて、糸鋸、鉈、太枝切鋏、肉切包丁とを示しながら、覚悟を決めるよう迫った。買ったばかりの道具たちの刃をはじめとする金属部分のことごとくが神々しいまでに輝いて、わたしは目を細める。いよいよ泣き喚いて部屋の隅に嘔吐するT。わたしはといえば、この底なしの沼のような興奮、この天井知らずの高揚感の虜となって、二十年と連れ添った夫の遺骸をこの手で解体すると決まったからなのか、重大な秘密をひとまわりも若いKと共有し彼におのれの運命を託すと決まったからなのか、いずれ譫妄状態に陥ったわたしは気がつけば太枝切鋏を両手に夫の首に挑みかかっていて、おそらくはその瞬間にわたしの軀体の芯を雷霆のごとく貫いたものこそは生涯初めて知るオーガズムという名の悪鬼羅刹。


 妻の日記はここで終わっておりました。読み終えた私の動悸はいつまでもやまず、氷風を吹きつけられたように額から下が冷たく凝るのがわかりました。
 折しも家の三毛猫が尻尾を立てて食堂に入ってきたもので、いつもならこちらを見上げ、甘えた声で二、三鳴いてから、ひょいと私の膝に飛び乗るところ、これが足元を素通りした。
「おい、タンヌーよ、タンヌーよ」
 呼びかけても猫はピクリとも反応しない。猫の気まぐれとはいえ、うちのは呼べば振り返るくらいの頭も愛想もあったはずだと席を立ちましてね、猫の真上に屈んでこれを抱き上げようとしましたところがですね、思いがけず両腕が空を掻きまして、なん度それをしましても猫にはついに触れられず、そよとも風も立たない。

 そこで不意に口を衝いて出たのが、
「モシヤ俺ハ死ンデイルノカ?」

つづく

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