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無患子 (前編)

 誰の小説だったか、あるいは詩だったか。

 樹冠に霊の宿る、となにかで読んで以来、高木の梢を見上げるたびに、そこに異形の者たちが思い思いの姿勢を取って見下ろすのを想像するようになった。風もないのに梢が揺れていることがある。それも特定の枝ばかり、手招くように。ああ、いるな、と訳知り顔にしばし見上げて、連れに怪訝な顔を向けられることも少なくなかった。

 大木を見つけると、その下に寄って、幹に両手をついて見上げる。樹冠に宿る霊だか物怪だかの気配を感じ取ろうとするのとは別に、巨木に寄せる畏怖の念から、そうする。いつからだろう。そこにすっくと立つ樹を見て、いいものだとある年齢から心づくようになり、やがて幹の太さや樹皮の年季の入りようを目近にして、むしろおののく年齢に差しかかっていた。

 町なかの大樹はたいてい寺や神社の境内にある。あるいは公園内。欅の巨木が三、四と連なって歩道を遮るようにしてある場合は、何百年も前からある往還の名残だったりする。それでもあえなく切り倒される樹も近年少なくない。人はもう十年と同じ風景に堪えられないと見える。あるいは土地が遊ぶとは、今や罪なのかもしれない。どこもかしこも「有効利用」が幅を利かせ、畑地も雑木林も更地に返されて、建売住宅が林立する。あるいは年寄りの地主が相次いで鬼籍に入るせいかもしれない。近くの自治体運営の手広な公園内でも、順次大木が切り倒されていった。こちらは楢枯病のせいだと、古参らしい禿頭のジョガーがひと回りほど若い女の二人連れのジョガーをつかまえて説明するのを、通りしなに耳にした。

 その寺で初めて無患子の実を拾ってから何年になるだろう。無患子、と書いて、むくろじ、と読む。大樹を見て感慨するような年齢ではまだなかった。初詣に寺へ赴くというのも妙な話だが、丘陵全体を境内とする平安期開闢と伝えられた古刹で、高みに低みに社殿は点在し、そのうちには神仏習合の名残の神の社もあったから、年始は長蛇の石段を登ってまずはこちらで柏手を打つ。とまれ、初詣は神前、とこだわったのは独り身の長男ばかりで、まだ壮健だった二親も、年始に帰省する弟夫婦も妹夫婦も、そして彼らの小さな子どもたちも、低地にある本殿の参拝で済ましていた。

 本殿の前は参拝客でごった返し、年末年始用に新たに設置された目に眩しい白木の大きな箱に賽銭を投げ入れ鰐口を鳴らすべく一時間近い牛歩を強いられるのに対し、丘の中腹にある社はいつでも閑散としていて、鬱蒼たる木々に隠された感じも良かった。そしてそれ相応に荒れてもいた。本殿前の人だかりを見下ろしながら、尾根沿いにある塔や祠の類をひと通り見て回るのが長男の毎年の習いとなって、本殿の参拝はせずにしまうのもしばしば。そうして無患子の実は見つけられたのだった。
 木々の下生えに転がるそれらを認めて、まずは地に這う虫と見た。腹に蜜を溜め込んで球に膨らむ蟻の仲間。深い飴色の表面が蝋引きされたような光沢を持ち、シワの寄り方がまた脈の浮くように見えた。脈が浮くなら昆虫の類ではないようなものの、いずれ生き物めいてぎょっとしたものだ。手に取って日に透かすと、飴色の向こうに黒い影があって、振るとからからと鳴る。表皮はちょっとやそっとの力では潰れない硬さで、ヘタは芭蕉扇を伏せたようだし、たちまちこれの虜になった。手のひらにつかめるだけ上着のポケットに入れ、高台を下った。たまさかの高揚感を得ていたに違いなかった。

 ムクロジ、と図鑑にはまずそう記載されていて、たちまち変換された漢字に狼狽えたはずだった。今でもむくろじ、と自分で発音したり人が言うのを聞いたりすると、骸児、の二字が頭の片隅にチラつく。むくろじを無患子と書き、「子に患い無し」と厄除けの意味を込めるようだが、ム・クロ・ジと分節するのはなかなか苦しいのではないか。まずはムクロ・ジだろう。そうなると、正月早々不吉なものを拾ってしまったような、日本人固有なのかもしれない穢れの感覚が深層からざわつき始める。聖域に植えられていたことがまた意味を帯びてくる。月満たずで死んだ胎児が腹のなかにいる連想を、この実を矯めつ眇めつしながら古人はまずしたのではなかったか。それがいつか発音はそのままに、当てる漢字を変えることで意味を反転させる知恵者が現れた。多くがそれに追随した。そういうことではなかったか。
 硬い表皮をナイフで切り開こうと格闘するうちにも、禁忌を冒すような後ろ暗さがともなった。表皮にはきれいに刃が入らず、どうにか開いた穴を刃先でめくり上げ、そこからまた少しずつ破片をむしり取るようにしながらようやく骸を取り出す。骸は産毛に覆われていて、それを拭き取ると、直径一センチに満たない、マット加工を施したような黒い硬質の種子が現れた。その昔、これを羽根突きの羽根につける玉に用いたという。
 深い飴色の果皮には界面活性剤の一であるサポニンが含まれ、今でもインドの地方ではこれを砕いて水にふやかして泡立たせ、洗濯洗剤に使用するとのこと。日本でも古くは平安時代に無患子の実で髪を洗ったという記録があるようで、江戸時代の『本草綱目』には用途の詳細が書かれている。井戸端にしばしば無患子が植えられたのは、石鹸として利用するため。また少なくとも江戸時代の子どもは果皮を溶いた水に草の茎を差し、シャボン玉遊びをしたよう。また、落語の「茶の湯」には、知ったかぶりの隠居と小僧が退屈しのぎに茶を立てる際、茶筅ではうまく泡立たないからと茶釜に「ムクの皮」を投じる場面がある。これを飲んで腹を壊す、とあるが、かつては漢方の生薬「延命皮」としても使用され、効能書きには滋養強壮、止血、消炎効果等が挙げられた。女性用避妊具として使われたという記述も見つけたが、おそらくは数個の実をなかに入れておいて、行為の最中にサポニンが溶出して殺精子剤として働いたものと想像するが、どうか。

 無患子の寺へは、いつか年始に詣でなくなった。そもそも帰省をしなくなった。年末年始は仕事の繁忙期にあたり、三日しか与えられない休みに気を遣ったり遣われたりがまず煩わしかった。年始には家族は一堂に介するもの、と形にばかりこだわる年寄りへの反発もあった。一人で年を越す侘しさを知らぬわけではなかったが、それもまた似つかわしいと思える心境にあった。
 そして気がつけば、自分も妻帯者となり、三人の子らに囲まれていた。賑やかなものだった。いやはや、日に日に騒々しさは募るよう。そしてその騒々しさに自分がなずむとは、思いも寄らなかった。
 今年こそは初詣に、と妻に言われて、三年と神前の挨拶を怠っていたことを今更のように知る。無患子の古刹を思っていた。どんぐりやら松ぼっくりやらをポケットいっぱいに入れてきて、洗濯する妻の目を丸くさせるような子どもたちであれば、あの実を気に入ることだろう。父が魅せられたように。

(前編・了)

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