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「あなた、女がいるでしょう」
「俺が、浮気? まさか。なにか心当たりでも」
「はっきり否定しないところが」
「いや、これはことばのアヤだよ。もちろんよそに女なんていない。俺の稼ぎでそれはムリ」
 苦笑しながらも涼兎にとって後半の言い訳はなかなか切実だった。女遊びはおろか、週末の飲み会すらままならない。
 結婚して五年、いまだ子はなく(努力はしているつもり)、子作りを前提とするセックスには気が乗らず、妻とはだんだん疎遠になって、エロサイトのアブノーマルな動画でそっちの欲求は解消するようになっていた。だから、肉体を重ねるのをなんだかんだ言い訳して涼兎が避けるふうなのを、ほかに女がいると妻が疑ったのも無理はなかった。
「わたしを、愛していますか」
「もちろん」
「もちろん、なんですか」
「もちろん、愛してるよ」
「それでもほかの女を抱きたいと思うのですか。ほかの女とヤりたいと思うのですか」
「いや……」
 ヤりたいなどということばを使う妻ではなかった。それには驚いたが、ほかの女とヤりたいと思うことくらい自由だろう、と涼兎は内心反発していた。しかしそれを口にすれば面倒臭いことになるから、涼兎は黙っていた。
「わたしとできないようなことを、ほかの女とならできるんですか」
「どうしたんだよ、急に。俺は浮気してない。よそに気になる女もいない。これで十分だろう」
 妻は俯いて押し黙る。こうなってはどう宥めようが賺そうが少なくとも翌朝まで閉じこもる。同僚に話せば、メンヘラの一言で片付けられるだろう。しかし第三者がする妻の侮辱に耐え得るほど涼兎は冷めているわけではなかった。

 その日遅くに帰宅した涼兎は、夜更けに風呂に浸かった。じき妻の起き出す気配がして、声をかけたが返事はない。返事のあるまで呼びかけるようなことはもとよりしないから、気にも留めず湯に浸かりつづけていると、背後に気配が立って振り仰ぐ。
 磨りガラスの向こうに人影があった。妻が全裸で立っていた。磨りガラスの表面に下腹が当たって、陰毛のデルタが透けて見えた。浴場で欲情、と愚にもつかないことば遊びを頭のなかでして、ここで一線交えるのもしんどい疲れているのにとうんざりしながらも、
「いっしょに入るかい」
 と声をかけた。
 妻の影は、その瞬間、ふっと磨りガラスの向こうへ離れた。
 風呂から上がると、妻は寝床のなかで寝息を立てていた。先刻起き出した形跡など微塵も見えない。いつからか別々に寝ている涼兎は、小首を傾げながら缶ビールのプルトップを引き上げ、飲みながら、しばらく妻の寝姿を眺め、自室に下がった。

 平日の休みに遅寝をしていると、買い物へ出ます、と扉越しに妻が声をかけた。
「了解。気をつけて」
 言ってから寝付けなくなり、エロサイトを開いてひとつ気を吐いた。
 気をくるんだティッシュを自室のゴミ箱に捨てるのを忌避する涼兎は、それを台所にある燃えるゴミ用の蓋付きバケツに捨てようと部屋を出て、扉の半開きになった妻の部屋を覗いてぎょっとした。さっき買い物に出たはずの妻が、こちらに背中を向けて座っている。洗濯物を畳むのらしい。
「なんだ、いたのか。買い物は?」
「買い物? 行きましたよ」
「さっき?」
「はい」
「俺にドア越しに声かけた?」
「かけました。起こしてしまいましたか」
「いや……」
 妻が振り返りもしないのを不審に思いながら、彼女が担ぐとも思われず、なんでもない、と言って手にした物を後ろ手に隠した。

 職場の女の後輩が相談に乗ってもらいたいことがあると言うので、会社が引けた後で食事をすることになった。俺にもこういうことがあるわけだ、と涼兎は期待するやら自嘲するやらで、このことは誰にも漏らさず、妻には上司と飲むことになったと嘘のメールを送った。
 後輩はやたら涼兎を褒めるので、終始面映かった。何を相談されたかなどとうに忘れてしまった。ずいぶんとキザなことを言っては、その度に後輩は黄色い声を上げる。奥様がいるなんて、わたし、悲しいです、などと言われて、なお聖人君子でいられるわけもなかった。
 ホテルでことに及ぼうとすると、妄想を実現してください、と後輩はたしかに耳打ちした。奥様にはできないあんなことやこんなこと、いっぱいして。
 交わりながら、こんなからだの相性もないと口にして、妻を思っていた。何がどこにあって何をどうすれば気持ちいいのか、お互い知り尽くしている感じだ。これは妻とのありし日のセックスと同じだとからだは覚えていて、まじまじと女の顔を観察し、眼窩から鼻の穴から耳の穴まで舌で弄りながら、それが妻とは似ても似つかない猫顔であるのをつぶさに確認する。妻は狸顔だった。涼兎は猫と狸に惹かれ、狐と馬には食指が動かない。

 燃え殻のようになって帰宅し、風呂に浸かる。妻は起き出さない。何度か気になって振り仰ぐも、陰毛デルタはついに磨りガラスに浮かび上がらなかった。風呂を出て、冷えたビールのプルトップを上げ、飲みながら、扉を薄く開いて妻の寝姿をしばし眺める。寝姿といっても、妻は決まってこちらに背を向けている。こんなときほど妻が欲しくなるとはどういう了見かと、涼兎はいぶかった。

 朝起きて食卓についた涼兎は、思わず叫び声を上げた。
 妻と思ったその女が、昨夜の猫顔の後輩だったからである。
「なんだって、君」
「どうかして」
 女は妻の寝巻きを着ていた。
「妻は、どこへ……」
「なによ、わたしじゃない。やぁねぇ、どうしちゃったのよ」
「いや、そんなはずは……」
「まさか、寝ぼけて別の女と混同してるんじゃ」
「いやいや、まさか」
 ここは一旦成り行きに任せようと、涼兎はいつになく冷静な判断をする。

 職場で呼び止められて、振り向くと、見たことのない女がにこにこ笑いながら立っている。いや、見たことがないどころではない、場違いさゆえにそう判じただけで、毎日顔を合わせる妻その人だった。狸顔の。
「なんだって、こんなところに」
「だって、同じフロアじゃないですか」
 言ってくるくる笑う。すっと身を寄せてくると、潤んだ目で見上げて、
「先輩のせいで、ずっと痛い」
 「ずっと痛い」が一瞬「ずっといたい」と混同されて、危うく「いっしょに暮らしてるじゃないか」と妙な返答をするところだった。
「今夜も相談事があるんですけど、お暇ですか」
 欲情のほむらがにわかに燃え盛り、いま、この場で、この狸顔を無茶苦茶にしてやりたいと、涼兎は興奮を抑えるのがやっとだった。

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