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誰も修行で死なない宗派

遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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GWにどこかに出かけようと思い、子ども達に希望を聞くと京都太秦映画村と返ってきたので行ってきました。
最新の機器を使ったアトラクションもありましたが、昔ながらの江戸の町並みのセットもあり、その中に橋があって、中央に「このはし わたるべからず」と書かれた高札が立っていました。
もちろん橋の前には一休さんの絵が描かれていてとんちを考えている様子でした。
子ども達も一休さんは知っているようだったので、どうやってこの橋をわたるか聞いてみましたが、誰も「端を渡る」というとんちは知りませんでした。

浄土真宗でしばしば「妙好人」と呼ばれる人達が紹介されます。

農民や主婦など出家していない在家信者で、阿弥陀仏への信仰がそのまま日々の暮らしの姿や発言に現れるような人達なのですが、それゆえに言っていることがとんちのように感じることがあります。

例えば、因幡の源左と言われた江戸後期に鳥取県にいた農民は、柳宗悦司馬遼太郎も著作の中で取り上げた人です。
18歳の頃、父親と死別する際に、遺言で「おらが死んだら、親様をたのめ」といわれましたが、親が誰なのか、たのむとはどういうことなのか分からず日々を過ごします。
ある日、山へ牛とともに草刈りに出かけ、五束の草を刈り取って、四束を牛に担がせて一束を自分で担いで帰ろうとしていたが、重くなって疲れてしまったので、その一束も牛に担がせます。
その時に、自分が重荷に感じていたものを全て引き受けてくれる存在があると気づき、それがお寺で聞いた阿弥陀仏に全てを任せるということであり、親とは誰か、たのむとは何かということに気付いたと言います。

近所の若い娘が人生に悩んで、どうしたら楽になれるのかと聞くと「自分も自分がこしらえたものじゃないからわからない。凡夫にわかるということはないだろうから。わからないままで行くしかないだろう、そろそろならわかるだろう」と言います。

自分の芋畑に行くと、誰かが盗んで掘り返した跡があるのを見つけ「素手で掘ると手をケガするといけない」と言って鍬を置いてきます。
さらに別の日に芋畑に行って、ちょうど盗んでいるところを見つけると、何も言わずにそっと帰り母親に「今日はうちが芋を掘る番ではないようだ」と言います。

自分の身体も、人生も、芋も、辛いという気持ちも、全て所有せず、阿弥陀仏に任せている姿が見られます。

浄土真宗は、世間の人が言うような「修行」がない宗派です。
座禅を組むことも、滝に打たれることも、一晩中山中を走り回ることもありません。
修行が理由で死んだ、という話はついぞ聞いたことがありません。
浄土真宗のお坊さんで、心や行いが清らかだと言われる人も見たことがありませんし、ビジネスを絡めた話をする私にもしばしば「生臭坊主」という言葉がかけられます。

妙好人は、修行も自分の悩みも身体も今、手にしているものも全て阿弥陀仏にお任せして委ねています。
それ故に自分の心を重く苦しめるものからも解放されているように感じます。

ただ、世間の人のように何かに心を縛られることなく、軽やかな気持ちでおられるからか、何となく浮世離れしたような、とんちっぽいエピソードになってしまう気がしました。

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