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デス・レター(ロックの自爆とポップ)


「ポップ」という言葉を定義することは非常に難しい。知る限りの誰もが、自らの印象・感覚でものを言っているように思えるからだ。かつて、音楽評論家の故中村とうようは、それを「大衆音楽」と名付けて、その地域の大衆に根付いた音楽を称揚した。インドネシアのダンドゥット、パキスタンのカッワーリーなどなど。しかしそれならば日本はどうなのか。中村は大衆音楽を、たとえば河内音頭、たとえば美空ひばりとした。

ダンドゥットもカッワーリーも美空ひばりも、俺は大好きだが、だからと言ってそれらを「ポップ」とするかと言えば、うーんとうならざるを得ない。ポップの定義、難しい。

だが、「ポップでないもの」を挙げろと言われれば、それはさほど難しくなさそうだ。ポップの定義は「『ポップでないもの』でないもの」として考えるのが良いかもしれない。

俺の生息するアンダーグラウンドにおいて、ポップでないもの、それはギターロックである。と言ったら忽ち顰蹙を買いそうだが、俺はそう思っている。まあそう青筋を立てずに、説明を聞いてくだせえ。

日本のロックにおいて、Blankey Jet CityとThee Michelle Gun Elephant の登場は実に大きかった。激烈で、轟音で、ヒステリックで。同時に日本らしい抒情も見え隠れし。若ぇ衆のみならずオヂサンオバサン方が夢中になるのも無理はなかった。「やっと日本にも本物のロックが現れた」と。

だが、この俺は上記二つのバンドが与えた仄暗い影の方が気になる。それは、「ギターと声の激しささえあれば、ロックは大丈夫だ」という、現在のアンダーグラウンドロックに流れる信念のことである。

ソニックユースは「ギターはノイズを聴くためにある」と言って、積極的の不協和音やおかしな音を出し続けた。だが。100%,Sugar Cane, Little Trouble Girl…彼らの楽曲ほぼ全てが、60年代、70年代のバブルガムミュージックを下敷きにしている。即ち、表層に轟音があり、深奥にアメリカンポップスがあるという二重構造である。

ブランキーもミッシェルも、この構造は持っているように思える。だが、そのフォロワーたちは、ギターとシャウトに痺れて、憧れて、その表層だけを以てロックだとしたのではないかと、俺は考えている。仏作って魂入れず。魂がなければ、ちゃんとした音楽にはならぬ。では、日本の(アンダーグラウンド)ロックが込めた魂とは、何か?

それは、自分自身の気持ち、自我、心の揺れだったろう。それはまさに私小説の結構であり、フォークの心象そのものである。俺にとって、多くの日本のギターロックが何かビンボー臭く聞こえるのはこの「結局フォーク」のせいなのかもな、と思ったりする。

たびたびの登場で申し訳ない。VERONICA VERONICOの鍵子が、ちあきなおみに答えを求めたのは、賢明な選択だったろう。作曲者の中村泰士は千秋の傑作「喝采」について「ヨナ抜き音階の傑作」(Wikipediaより)と自賛している。彼はまたこの曲はAmazing Graceを参照したとも言っている。筒美京平、阿久悠、阿木耀子…キラ星のような才能が溢れていた昭和歌謡曲界。ニューミュージックが袂を分かった本流の作り方は、「洋楽」の深い所からの日本的解釈だった。魂のひとつのあり方だ。鍵子以外の楽器担当の3人も、必死に物語を紡いでいる。述べたように、匠の技をもってして。4人がちゃんと、ひとつの情景を語ろうとしている姿は、感動ものである。

もうひとつの魂の在り方。それはtableである。彼らは2人の間の愛、そして、日本のパンクロックとアメリカのグランジへの愛を、バンドの魂に据えた。フォークに堕ちかねない彼らの歌が、愛すべきロックになっているのは、この愛の賜物と見る。夫婦であるという以上の絆。必死に一つになろうとする姿。これも感動的である。

とここまで書いてきて(俺は大概、結論を、書きながら分かってゆくタイプである。こーゆーことを言いたい、つまりこーゆーことである、と想定して文章を記さない)、「ポップである」とは、
・核の部分に「言葉でスパッと言い切れる何かがある」
・それは「ギターロック」や「SSW」といった言葉では緩い
という事が、おぼろげにだが、見えてくる。

アンダーグラウンドの多くのギターロックは、ギターの轟音で事足れりとしている気がする。そしてそういった、ギターの轟音ロックがアンダーグラウンドの多数を占めている、その事実そのものに、即ち、自分のやっている事が多数派であるということに、多くのバンドはただ寄りかかっているだけで生きているのではないだろうか?となって話は、急転直下、同調圧力と連携する。

そしてその事を、多くの「隠れロックファン」たる聴衆は見抜いていると思う。ロックとは、そういった同調圧力への抵抗運動だったはずだ。それがライブハウスで見られない。「ロックはダサい」「ロックはつまらん」「ライブハウスに足が向かない」理由かもしれない。

それならば、ロックはどうすれば良いのか?言えるのは、単にギターをかき鳴らすだけではダメだろうという事であろう。それがどんな音なのか。どう見られたいのか。聴衆をどうさせたいのか。などといった、音響、(今流行りの)バックビートなどを含めた、自己客観視、即ちプロデュース能力が必要なのではないだろうか?言い換えれば、その辺のことを十把一絡げにして、
「ギターをガーンと鳴らせば!」
で片付けてきた事が、ロック斜陽、ライブハウス斜陽の原因ではないか。

こう考えている俺は、無論少数派である。だが、少数派である事そのものが、同じく少数派であろうはずの、実は社会不適合を心奥にもつ「隠れロックファン」に寄り添えると思う。何度もいうが、福田恒存の言う「1匹の迷える羊」の心を掬う事は、残った99匹の支持を集めるより、意味のある事だと思うからだ。

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