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サガンの言葉

フランソワーズ・サガンの「悲しみよ、こんにちは」は、
学生の頃、そんなに好きだとも思わなかったけれど、
いつしか、いいなと思えるようになった作品。

一人称の語りに、冒頭から引き込まれてしまう。
流れるような、詩的な筆致が、心地いい。
どこか悲しげで、青みがかった柑橘の
すっぱくて、甘いかおりがする。
私にとっては、そんな文体。
(朝吹登水子さんの訳のうまさも大きいけれど)

デリケートさと残酷さ。敏感さと鈍感さ。光と影。
青春期の、あるいは、少女という存在のもつ相反する要素が、
量子もつれを起こして、深遠な沼の底へとおちていく。

けど、何でだろう。ちっとも重くない。
奥深いけれども、軽妙。だからなのか、読後に引きずらない。
哲学的な風合いが、口の中にちょっと苦みを残しつつも、
ラストの暗転がぼやけ、小粋で美しいニュアンスや、
舞台となった海辺の風景ばかりが思い出されたり。
不思議とそこまで後味が悪くないのは、
なんだか救われるところ。

ひときわ明るい一等星・双子座生まれのサガン――。
なので、どう描いても決して重苦しい雰囲気には
ならないんだろうかなぁ・・・なんて
勝手に占星術的解釈。

サガン18才の時に、6 週間で書き上げたというこの小説。
翌年出版され、たちまち世界的大ベストセラーに。
彼女は、わずか19才にして、莫大な富と名声を得たという。
(その若さゆえに、誹謗中傷も相当だったようだけど)

そんなサガンが話した言葉の中に、とっても印象的なものがある。

15才の時、ランボーの詩「イリュミナシオン」を初めて読み、
雷に打たれたように、“文学を見つけた” ときのものだ。

久々に読み返して、なんかやっぱり素敵だなと
思ったので、ここに置いておくことに・・・


ああ! 突然、私にはすべてがもうどうでもよかった。

神がもう存在しなくても、人間が人間的な存在であろうとなかろうと、

さらには、いつの日か誰かが私を愛するかどうかということさえも!

言葉が1つ1つ ページから飛び立ち、風と一緒に私の布地の天井にぶつかった、

言葉たちが私の上に降りかかってきた。(略)

こんなことを書いた人がいるのだ。

誰かがこんなことを書く天賦の才を、

幸福を、所有したのだ。

それはまさに、地上の美であった。(略)

文学がすべてであるということの明白な証拠、決定的な証拠だった。(略)

文学こそすべてなのだ、

最も偉大な、最も非道な、運命的なもの。

そして、そうと知った以上、他になすべきことはなかった。(略)

ようするに、私はその朝、自分が何ものにもまして愛するもの、

今後一生愛し続けるであろうものを発見したのだった。


フランソワーズ・サガン「私自身のための優しい回想」より



この表現のあざやかさよ。
はじまりの歓喜と興奮。
天啓を受けたときの、粛々としたおごそかさも。

純度の高い瞬間が、今もどこかで息づいていて
意識さえすれば、空気中から取り出せそうな、
光の金粉として、それこそ頭上にキラキラ降りかかってきそうな、
そんな、透明な言葉のエネルギー。

たった15才で、「何ものにもまして愛するもの、今後一生、
愛し続けるであろうものを発見」し、その言葉どおり、
文学を生涯の支柱として、多くの読者を魅了しつづけたサガン。
(ちなみに2作目の「ある微笑」も素晴らしいです)

スピード狂、賭博狂、アルコール依存・・・そんなのもあった女流作家。
不安定さやナイーヴさも人一倍、持っていたのかもしれない。
それでも、魂的には、ただ書くためだけにあった人生であり、
それは、かの15才の瞬間から死の直前まで、まっとうに貫かれた。

こんなふうに、
たった一篇の詩が、人生を変えることもある。
たった一瞬で、場が変わってしまうということも。
それなら、一つの体験や、一人の人との出会いで
人生が根底から覆される(いい意味で使いたい)  ことが時折、起こるのも、
しごく当然なことなのかもしれない。
その曲がり角の向こうに、何が待っているかは、
15才だろうが、年を重ねていようが、わからないこと。
そのわからなさが、ひとしく平等であることが何だか嬉しい。


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