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清潔なファシズム【オンガク猫団コラムvol.30】

ファストフード店で、時折見かける光景がある。1リットル大の水筒が、机の上にドンと置かれているのである。他人の持ち物にとやかくいうつもりは毛頭ないが、なんとなく気になってしまう。そこでオイラは、自分の食事を粛々と摂るわけだけど、どうしてもその水筒に視線が行ってしまうのだ。いや、そんな瑣末なことに神経を尖らせてしまうのは、みみっちい人間のなせる技で、鷹揚に構えて自分の食事を楽しむべきなのである。

かつてオイラがヒューマン・ウォッチングしてきた限りでは、水筒の飲み物は、得てしてカップに注がれ、飲まれる運命にあるようだ。他人を疑うのはもってのほかで、下賤な行為であるが、テーブルに水筒が置かれているのを見るだけで「あー、やれやれ」と思ってしまうのである。ただこうも考えられるのだ。あの水筒の中身は、薬が入っていたのかも知れないと。

確かに現代社会において、持病を患っている人は多いだろう。けれども、時折、頼んだフライドポテトやハンバーガーを食べながら、あんなに旨そうに水筒の液体を啜るだろうか。そんなに美味な飲み薬というのがあるんだろうか。いや、オイラが世事に疎いだけで、そういう薬があったりして。いやいやいや、多分ない。もし仮に水薬なら、水筒に充填しないだろうしね。怪しい。なんだか非常に怪しいと思ってしまうのである。

つい最近のことだ。某ファストフード店で、高校生と思しき4人の喧しい集団がやってきて、4人掛けのボックス席を占拠した。4人はとりあえずの席取りのようで、鞄を椅子に放り投げたら、3人はオーダーをしに立ち上がった。ところが残った一人は、自分の鞄からiPad位の大きさの弁当箱を取り出して、正々堂々と食べ始めたのである。高校生にして、横綱レベルの体格の持ち主で、ある意味オイラは清々しいと思ってしまった。あんな威勢のいい兄ちゃんを見たら、店員は知らぬ顔の半兵衛になること請け合いだろう。オイラの頭の中で、何故か突然「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」という大昔のCMのキャッチフレーズが去来したのだった。うわっ、古ぅ。

「ポリティカルコレクトネス」という大きな潮流が、最近、様々な分野で取りざたされるようになった。人種差別や女性差別といった、差別的な発言や行動をなくそうという思想である。例えば「障害者」は「障がい者」に、「土人」は「先住民」と。「ブラインドタッチ」は「タッチタイピング」に、といった具合だ。絵の具のベージュの肌色が無くなったことは記憶に新しい。これもポリティカルコレクトネスだ。一般的には、言葉狩りと言われているようだが、差別という物の見方が根っこにあるので、単なる言葉狩りでは片付けることは難しく、問題はデリケートだ。

行き過ぎたポリティカルコレクトネスが、日々表現の自由を奪われると危機感を覚え、フラストレーションを感じる人も少なくないだろう。大体、この世の中から差別は消えるものなんだろうか。この問題は、実は道徳心と正義の戦いなんじゃないだろうか、とオイラは捉えている。理想としては道徳心と正義の重さは釣り合って欲しいのだろうけど、元々道徳心と正義は全く別物なので、議論自体が不毛に思えてしまう。法を犯しても道徳が優先することもあるし、逆もまた真なりである。完全無欠な人間はいないし、愚かでない人間もいないのだと、オイラは思うのだ。

海の向こうのアメリカでは、トランプというぶっ飛んだおっさんが快進撃を続けているらしい。オイラは他国の政治には興味はないが、どうやらトランプ氏の歯に衣着せぬ発言は、ポリティカルコレクトネスに疲弊した人たちに「差別発言とかかったるいこと言ってないないで、本音で発言しちゃいまっせ」という強烈なメッセージになっているらしい。なるほどなあ、と思う。

少し前に「ヤクザと憲法」という映画を観た。新聞や雑誌で盛んに取り上げられていたので、ご存知の方も多いだろう。諸事情でDVD化は難しいという情報を得たので、観に行ったのだが、とても見応えがあった。この映画の中で、強烈なメッセージを感じたのは「ヤクザには、人権はない」ということだ。

仮にヤクザ本人が、甘んじて人権がないという十字架が背負わされたとしても、ヤクザの家族には何ら罪はない。ヤクザも同じ日本人である以上、憲法が保証する基本的人権は保証されなければならないはずなのに、全くバカげた話である。暴力団対策法とは、いかに理不尽な法律なんだろうと考えされられてしまったワケだ。ポリティカルコレクトネスにしろ、暴力団対策法にしろ、社会は今、問題のあるものや、異物に対して極端な除菌化が進んでいるような気がしてならない。ある作家は、こういう現象を「清潔なファシズム」と呼んだ。

電車の隣りの人が、酷い口臭、体臭だったり。ゲームに夢中で、肘がかくかく動いてそれがぶつかって煩わしかったり、人ゴミに紛れると鬱陶しいことが多々ある。くしゃみで、唾液が目の端に飛んできたり、フルーツグミ大の痰がオイラのズボンの膝の上に跳んだこともある。座席を確保していた○○コーヒーで、座席を奪われたこともある。ゴミ出しのルールを守らなかったり、真夜中に公園で奇声を発したりと。煩わしいあれこれを、どこまで我慢、あるいは受忍した方がいいのか、分からなくなることがある。

有名人のスキャンダルで大騒ぎしたり、SNSで炎上騒ぎが起きるのも、現代人の寛容さがバグを起こして極端に低下しているんじゃないだろうか、とオイラは思うことがある。インターネットや情報化が深化を遂げれば遂げるほど、個人が生きていく上で心地よくホッとする「パーソナルスペース」が日に日に狭くなっている気がするのである。

なんだかとりとめのない駄文を弄してしまった気がするが、オイラは今、「清潔なファシズム化」は、やがてこの世界が超克しなくてならない難問、つまりウィキッド・プロブレムだと思うのだ。清濁併せ呑む強烈な楽天主義に照らされた社会になることを願ってやまないが、果たしてそんな日は来るんだろうか。

オンガク猫団(挿絵:髙田 ナッツ)

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