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方程式とは何か(初級編)

モチベーション

方程式とは数学、もっと言うと科学の一大テーマである。最も簡単な方程式は義務教育で習う為、国民の殆どが知っているがそれの意味を正確に捉えてない故に錯覚が起こる事が時にある。それを解消したいというのがこの記事の目的である。簡単なことかもしれないが、意外と大学の数学科の学生ですら分かっていない人がいる。この記事は特に方程式につまづいた人や、先生たちに見てほしい内容となっている。

定数と変数の違い

記号としてはaを定数としてxを変数とすることが殆どであるが、これはオイラー(※確か・・・)が各々好き放題使っていた記号の使い方を統一的なルールを持って与えたことにより分かりやすくしたという経緯があるはずであり、あまりにも好き勝手使ってはいけない。
・・・それは良いとして違いとしては、動いてるか固定されているか(※取り扱いとしてそう思うか)なのであるが、その記号だけを見るとアルファベットの1番目と24番目という違いしかないので昔の私は違いがよく分かってなかった。
典型的な方程式ax=1を考えた時の定数aと変数xの理解の仕方は、この方程式を考える前に何でもいいから数字aをとり固定してしまい、そしてそのaに対して変数xにまつわる主題(数式)を考えるということである。

方程式とは?

変数に関する主題を打ち出してるに過ぎないという理解をするのが正しい。例えば、方程式ax=1ではイコールを使っているが、言いたいのはイコールに関する主題をこれから考えたいという提案であり、方程式を打ち出すタイミングではイコールは成立していない
つまり全体的としては、「何でもいいから数aを思い浮かべなさい。そしてそれを固定しなさい。この時、主題[ax=1]をxを動かしながら考えなさい。注意としてここでのイコールは未だ成立していない。」というのが方程式の正確な意味だ。
これをax=1に略す意味はオイラーがアルファベットの取り扱いを決めたので、毎回同じ文章を書くと圧倒的に紙面の無駄であり、読む時間の無駄だからだ。方程式を出すたびに早くて2回、多くても3回同じ文章が書かれれば、皆「もう分かったからax=1とだけ書いてくれ。」と思うだろう。一回書かれれば二度と立ち戻る必要はないものの、だがしかし、最初は肝心だ。
それとこの教訓を持って学べることは数式とは常に論理的正確な文章の中にのみ存在するということであり単独で息をすることは許されない

方程式を解くとはどういうことか?

この項を読むと無縁解や解なしや些細な問題などに頭を悩ませなくてよくなる。
方程式2x+1=2・・・①を解いてみよう。まず方程式が打ち出された時にこのイコールは成立していない。イコールじゃないと数式として見ることが出来ないので、ファーストステップとしてあるxに対して上記方程式のイコールが成立すると仮定する。そう思い込む。その仮定のもと、両辺に-1を施すと2x=1・・・②になる。そして両辺を2で割るとx=1/2・・・③になる。
しかし未だ③は解でない。あくまでも①を満たすxが存在する時、そのxは②の条件を満たさねばならぬ、そして②を満たすxは③を満たさねばならぬ、という意味で③のxに関する条件は解である為の必要条件(※解であるならばこの形になるという意味。但しもっと正確には解候補)である。つまりその解候補③が本当に方程式①の解であるかどうかは、①に代入して確かめなければならない。方程式を習うときはよく「検算してね」と言われるが、ミスが無いかどうかの検算ではなく解として十分であるかどうかの検算である。即ち建前上のみの話をするならば解候補を見つけることまでは、ただの妄想のお話であり、検算からが数学である(※但しこれに関しては本音の部分の方が重要)。
例えば無理方程式を解くと無縁解というものが出て来るので、大抵はその時だけ「本当に解であるか確認してね」と習うが、その時だけではなく、やっているのは「解であるならば次の表記になる〜・・・」ということから式変形とは解候補を見つける作業をしているに過ぎないので、本当は毎回代入を通しての検算のステップは必要なのである。

それでも検算をしないわけ(応用編)

ここは基本じゃ無いので読み飛ばして良い。
みんながそれでも検算をしない訳は、例えば四則演算を通して方程式fが方程式gに変化したとすると方程式fを満たすxは方程式gを満たすが、それが同時に逆方向にも言えて方程式gを満たすxは方程式fを満たすからである。
つまり毎回の式変形において代入からの検算ステップを施しているからそれが連鎖しても大丈夫なのである。
四則演算みたいな簡単な演算では非可逆現象が起きないと知っているから確認しないだけで、本質的に確認は必要である。

関数とは何か

関数y=axではyも変数として使われる記号となっている。また方程式と同様に関数も主題である。つまり論理的文章の中に数式が存在するだけであり、方程式とは違う文章的コンテキストを持つ
それは皆が知っているように、順次xに値を入れてyの値を測るという主題である。方程式とは取り扱われ方が違う。(※つまり逆に同じ数式でも取り扱い方を方程式よりにするならば関数ではなく方程式であるということを言っている。つまり違うのは我々がそう思うことのみである。アルファベットに違いはない。)
関数と方程式の関係は上記関数において例えばy=1を出力するxの主題を考えるとax=1という方程式になる。これはつまり方程式は関数の断面であるとみなすことができる、ということを意味している。

まとめ

京都大学のHPを見ると「同一の条件からは同一の結果が必ず導けること」が科学の必要条件として与えられている。数学においては数式という形式性を用いて科学を作っているという意味で、形式性は重要である。しかし、形式としての完全性を求めることにそれほど意味はない
方程式とは形式的にやるならば現段階では解候補を与えるものに過ぎず、ある意味ではそこに何の数学性はないが、解であることの必要条件、或いは必要十分条件という意味まで形式性を伸ばす必要はない。その構成(※つまり形式的完全性を求めること)は無意味だ。労力の割に殆ど価値を与えず、それを考えている間に全部解けてしまうのだから。
つまりある意味形式で見てはいけず都度考えなさいということだ。これは形式性こそが数学的価値、つまり時間無限大でも腐食しない価値を与えている事実と矛盾しない

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