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人並みに出来なくても良いじゃないか


常識を知らない人間

「頭が良い人は何でも知っている」あるいは「何でも知っている人は頭が良い」という指標に問題提起を起こしたくこの記事を書きます。

私は他の記事を読んでいただければ分かるように、数学が得意です。隙のない理論を構築するのが好きで、数学に限らず散歩とかしてる時にもくだらない日常的な議題について一人でぶつぶつ喋りながら理論を構築しています。
そういう意味で結構考えることが好きなのですが、この特徴から想像できないほどものを知りません。一般的な社会人が知っているようなことを殆ど知らないので前職のエンジニア時代には苦労しました。ものを知らなさすぎて周りのメンバーと会話が出来ないのです。
例としてオリンピックが開催されていることも知らなかったり、コロナという感染症が流行っていることもだいぶ経つまで知らなかったりしました。現住所に住んで目の前にある大きい国道の名前が4号であることを知ったのも半年以上経ってからです。
また、行きつけの飲み屋で訳の分からんクソジジイに「歳の割にものを知らなさすぎる」と言われムカついたのでそっから一度も飲み屋には行っていないです。

私は全くの常識知らず、世間知らずです。

分業こそチームワーク

しかし、私は今から常識を身につけようなど露ほども思っていません。
一般レベルからしたら理論系の学問に対して圧倒的実力があることを知っているから、自分が思慮深いことを知っているから、という自信があり、それを心の拠り所にしている部分もあるのですが、建前的には皆が同じことを知っていても全く意味が無いと思っているからです。(※それともう一つ、知識の価値が過大評価されていると思っているからです。)
結局出来ないことは誰かが出来れば良いのです。極論を言うと一人が知っていれば十分なことを二人以上知っていることは無駄だと思います。私はチームワークとは分業の事であり、知らないことを互いに補い合うことこそが人間らしく生きることだと思っています。

無知の恐怖

しかし我々は、常識を知らないことを皆に知られることを異様に怖がります。
それ故無知を隠そうと、話題を逸らしたり、自分が知っていることを声高く言ったり、場合によっては自己防衛の過剰反応により「え?こんな事も知らないの?」と他人を暗に攻撃したりします。
しかし繰り返しますが、出来ることの重複などチームにとって、社会にとってなんの意味も無いのです。
単にある観点から人より劣っていないことの証明が出来ると思い込んでるだけです。そしてその観点も大した意味を持っていません。

人が持たぬものを持つ

チームワークとは分業故、我々が目指すべき事は人が持っていない自分だけのものを育てることです。
何でも良いのです。歌、絵、料理、植物の知識、数学、あるいは優しさや正義感・・・(例をあげきれません・・・)
そして私自身、数学の能力が私と被っている人にあまり魅力を感じません。生きている上で魅力を感じるのは自分に無い価値観やよさを持っている人に対してです。
それと偏差値や知識量などはどうでも良いのですが、思慮深い人を好きになります(それと優しさ)。

何も出来なくて良いじゃないか

私は大学院を出たと言う学歴は持っていますが、数学に関しては並の院卒以上だと思っています。しかし、その能力を披露する機会はこのnoteのみで、リアルの私の周りの全ての人は今やっていることの何十歩手前の位置から私のやっていることを知りません。
私の無知については最初に紹介した通りなので、即ち周りから見て私は何も出来ない人です。
でもそれで良いのでは無いでしょうか?
仮にこの能力を捨てて、代わりに英語が喋れて、簿記が出来て、プログラミングもそこそこ出来る、物知りな大企業の戦士になる能力を身に付けたとしてそれは面白いでしょうか?
これの解は人によって違うと思いますが、万人が目指すべき地点では無いと思っています。

振り回されず生きる

大事なのは自分の価値を自分が知っていることだと思います。
高偏差値、高収入、クイズ王、インフルエンサーなどが色々と振り回してくると思いますが、全部無視して良いと思います。
私はかつて地方公務員試験、教員採用試験に落ちました。そしてごく平凡な資格試験も要領が悪く受かるのが難しいと思っているし、英語能力も上げれる気がしません。別に頭が良い方では無いのでそう言うのはスッパリ諦めました。

それ故、自分だけが理解している自分だけの価値を育てていければ良いのかな、と思っています。


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