文系が数学を学ぶ理由
学ぶ理由をどの枠組みで議論するか
「文系は馬鹿」という事をよく耳にするが私的にこれは良く分からない。
何故ならば真の文系は数学は出来るし、上記の事をいう連中は数学の事は認めているようであるからそこに矛盾を感じるからである。
役に立つ・立たない論議もそうだが、この手の主題において枠組みを整理することは重要である。つまり
①文系の科学(※社会科学)において必要かどうか。(※人文科学は知らない)
②貴方が生きる上(※文系生活を送る上)で必要かどうか。
を常に明確にし、議論を進めるべきである。結論的に私は①、②どちらの意味でも必要と思っているが、①に対する答えを与えている途中で②にすり替えられる場合に戸惑うように、一様な答え方は不可能だと思っている。故に正確な枠組みを仮定しない議論は無駄である。
社会科学において必要
命題は最もストレートに回答でき、「社会科学において必要」である。
そして本来的にはこの回答で終了である。何故ならば、「理系に数学は必要であるか?」と問われた場合、例えば「物理を理解するうえで必要」とした回答で皆納得して引き下がるであろうから、わざわざ「文系が大学生活を送る上で」を含んだ回答を導く必要はないからである。
故に「社会科学において必要」を言えれば良いのだが、典型的な例が「ミクロ経済学の力/神取道宏」のp4,p5に書いてあるのでこれを紹介する。
価格転嫁と常識的議論の問題点
信じれるのは数理科学のみ
ここでの問題は数理の力を借りず、直感的な常識的な推論を積み上げたことにある。つまり、人間は頭が良いが、反対に驚くほど頭が悪くもあるので、どんなに頭が良い人でも(大体のものは)数理的なものしか正しい事を本当に正しいと判定できないと私は感じている。
このことを上述のような真の文系の方は知っているので、「数理モデリング」というものを大切にする。そして、数理モデリングの良いところは正しいか、正しくないかの議論場所をモデリング部に限定できるという事である。即ちモデリング後の推論は数学であり即ち科学(再現可能性を持つ推論)なので、問題が簡単になる。
皮肉なことに頭の良い人間ほど頭の悪さを知り、数理モデリングを通した簡単な問題を解き、無知なものほど数理モデリングをせずに複雑な問題を複雑なまま解こうとすることである。
問題としては後者の方が圧倒的に難しいので、どんなに深く考えても根拠希薄故、得られる結論に価値が無くなってしまいがちなのは自明の理である。
制度的知識と理論的理解
このように真の文系は数理モデリングを通し、行っているのは数理科学である。故、「文系は馬鹿」は恐らくそれを理解できない貴方に返ってくるから間違えても言わない方が良い。
それは兎も角、上述のように社会科学がやりたいのは社会現象の理論的な解釈であり、そのメカニズムの解明であるのだが、高校までは制度的知識に重きを置く。これはメカニズムの解析をやるようになった後になっても重要なこととは思うものの、実際的には暗記に過ぎないし、やりたい事のメインストリームでは無いと思うのでマイナーかと思う。
文系の貴方が生きる為に必要かどうか
これもYESであると思うが、これには全く別な回答を用意しないといけない。
注意として文系的議論の無い場を仮定してしまうと、それは最早文系かどうかすら関係なくなってしまうので、貴方が生きるとしても最低限議論のある場を仮定して問題ない。
これは例えば次の記事を見てください。
この記事は数理モデリングなど一切使わず、一般的な議題について私が論展開したものですが、割と数学的テクニックを使っています。例えば「頭の良さ」の定義を導きたい結論から天下り的に決定していますが、「頭の良さ」があるとしてその必要条件と思われるものからそのまま定義として採用するというテクニックを使っています。このテクニックはどの本にも書かれていない数学的不文ですがよく使われるものです。
文系になる
結局数学を使っていない理論は信用できないという感覚があり、普通の文系はガンガン使っています。普通とは大数の事では無く、それが極僅かであっても普通なのです。結局、文系なのに数学を使わないというマイナーなやり方を殆どの人がやり、文系も理系も関係なくマイナーをメジャーと錯覚しているだけなのだと思っています。
繰り返しますがこの上で「文系は馬鹿」は恥ずかしいので周りに言わない方が良いと思います。
・・・今回は割とキツイ文章だったかと思いますが流してください。
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