アメリカ西部開拓博物誌 增補版

鶴谷 壽(著) ピーエムシー出版(1990/3/1)

アメリカにとってフロンティアとは何だったのか?文学・映画・ミュージアム・書肆を漁り、交遊を深め、自ら探険の旅に出る。西部開拓史のエピソードを語らせたら当代随一の著者のつきせぬ知識の源泉。好評の初版本に「悪魔の帽子飾り」と呼ばれた有刺鉄線、「ピースメーカー」と愛称されたピストル物語を補遺。(紀伊國屋書店の内容説明より)

著者:鶴谷 壽
日本のアメリカ文学研究者、米国移住者、竹久夢二研究者である。日本英文学会会員。アメリカ学会会員。長崎県生まれ[1]

ウィキペディアより

目次
第1章 西部への道(西部とは何か;西漸運動;大アメリカ砂漠の征服)
第2章 毛皮と冒険(フランスとイギリスの争奪戦;毛皮会社の役割;山の男・マウンテン・マン)
第3章 ゴールド・ラッシュと開拓(カリフォルニアへ;たったひとりのジャパニーズ;ボナンザ・ウェスト;鉱山町を見た作家;西洋と東洋との出会い)
第4章 フロンティア・ロード(街道の歴史;船と幌馬車の利用;旅人の見た目印;小説・映画にみる街道もの;大陸横断鉄道の完成)
第5章 騎兵隊とインディアン(西部征服の実行部隊;南北戦争と虐殺事件;宿命の戦い;激戦の勇者たち)
第6章 文学作品とインディアン像(高貴な野蛮人;「明白な神意」をめぐって;異なる民族異なる文化)
第7章 有刺鉄線とピストル(有刺鉄線発明の功罪;ピストルは平和の使者?)

※下記は断りがない場合はすべて本書引用(小見出しは任意のため目次とは相違)

ジョン万次郎の冒険

ゴールド・ラッシュに東洋からは中国人がかなりの数でやってきたことはわかっているが、 さて日本人となるとどうであろうか。当時の日本はまだ徳川幕府の鎖国時代であり、海外への 渡航は禁じられていたから、カリフォルニアのゴールド・ラッシュには全く関係をもたなかっ たと思われがちだが、実は、たったひとりだけこの地にやってきた男がいる。それがジョン万次郎(1827-98)である。
万次郎は一八二七年(文政一〇) 土佐に生まれ子供のころから海に出ていた。一四歳のとき 遭難、仲間とともにアメリカの捕鯨船ジョン・ハウンド号に救助され、他の者はハワイで下船 するが万次郎ひとり船長にその才を認められて本土につれてこられて教育をうけ、英語、数学、測量術、航海術、捕鯨技術などをマスターし、のちに日本に帰国した。
当時、東部にいたジョン万次郎は、カリフォルニアでの金発見のニュースを耳にする。いずれ日本へ帰りたいと思っていたかれは、まず途中カリフォルニアに立ち寄り、金を掘りあてて日本行きの旅費を稼ぐことを思いついた。一八五〇年六月、当時、捕鯨港として有名だったニュー・ベッドフォードの材木船の水夫に友人といっしょに雇われて南米まわりでカリフォルニアに到着するが、後年に著わされたかれの回想記によると、サンフランシスコ湾内には二〇〇○もの船舶が停泊していたとある。サクラメント川を船で遡り、サクラメント市に上陸、そこから馬に荷物を負わせて、徒歩で六〇マイルほど北方のオスレというところに向かった。日給銀六枚(六ドル)で最初雇われた先がオランダ人のところであった。そこで約四〇日間働いたが、そのオランダ人はもともとならず者、約束の賃金を払わなかったので、友人と語らって独立採鉱を開始した。かなりの収入があるものの、まわりの風紀や治安が悪く、衛生状煮もひどかったので、一ヵ月後には体をこわしてしまった万次郎は、そこでの金探しをあきらめて引き払う。
井代二著『ジョン万次郎漂流記』には、「この一個月の間に銀銭二百七、八十枚と若干量金の収益があった」とある。しかし、サンフランシスコ在米日本人会編『在米日本人史』(水)には「七十日間砂金の採取に従事して得た金を売渡し銀六百枚を得た」とあり、働いた日数と銀の枚数にかなりのちがいがある。もう一書、エミリィ・ワリナー著『運命への航海』には、さきの四〇日間はただ働きであったが、のちの一ヵ月間の蓄財は六〇〇ドルと数個の金塊になっていたと書かれてある。銀貨一枚を一ドルとすると、六〇〇ドルは銀貨六〇〇枚になる。さてこうなると、どれが正しいのか判断がつきかねるが、妥協的な見方をすれば万次郎はカリフォルニアに着いたときに、すでに三〇〇ドル以上の金をもっており、ここでは一カ月間に「銀銭二百七、八十枚」を稼いだと考えるのが妥当な答えではないかと思われる。

金山歌と「おお、スザンナ」

万次郎は帰国後、幕府の役人の前で「金山歌」なる歌をうたったと伝えられている。役人は耳で聞いたとおりカタカナで次のように筆記した。
アイバンツウ。キャリホネ。ウエスパンチョンマイニィ(以下省略)
I'm bound to California with banjo on my knee.......
これは当時一般にはやっていた金掘歌で、歌詞は多少異なるものが他にもいくつかあった。
いうまでもなく、これはフォスター(松)作「おお、スザンナ」の替歌である。

ワカマツ・コロニーと「おけい」

ちょっと余談めくが、この「愛しのクレメンタイン」の歌を聴くたびに私には、どうしてもアメリカの土になったひとりの日本女性のことが思い浮かんでくる。
それは、かつてゴールドラッシュでわきかえったコルマのゴールドヒルにワカマツ・コロニーという名の日本人移民最初の集団移住地があり、そこへ渡った一行のなかに「おけい」という娘がいたことである。ワカマツ・コロニーやおけいのことについての資料には『在米日本人史』と『日米文化交渉史―移住編』、木村毅著『明治アメリカ物語』などがある。これらの資料にもとづいて少し述べてみよう。
幕末期、エドワード・W・スネールというドイツ人(プロシア領事館の通訳)がいた。かれはオランダ人として来日し、当時、東北の会津や庄内藩に武器を売りこみ、また砲術の教授などをしてまわり会津藩主からは松平武兵衛なる名前まで賜ったといわれるが、維新後、会津藩との関係を新政府から追及されるようになったため、アメリカに新天地を開拓しようと志し、まず妻(日本人、庄内藩士の娘ともいう)と子供、それに子守りのおけい(一八歳)のほか、二〇人ほどを引きつれて、一八六九年(明治二年)に二回にわけて渡米したのである。
スネールはカリフォルニアのエル・ドラド郡コルマのゴールドヒルに六〇〇エーカーの土地を購入し、日本から運んできた茶、菜種、桑、竹、温州蜜柑、黄櫨、棒などを植え、従来からこの土地にあった葡萄なども栽培し、「ワカマツ村」を建設しようとした。かれの目論見は明治維新の政変によって敗れた東北の藩士、ことに会津の武士を呼び寄せて、茶と養蚕を主体に竹細工や漆器の製作、さらに葡萄酒の醸造も手がけ、一種の植民地をつくりあげようとするものだった。木村氏によれば、実はスネールはカリフォルニアでのゴールド・ラッシュのことを知っていて、そこに参加することによって会津藩の財政を再建しようと藩主に建議したとのことである。
ワカマツ村について、一八六九年六月一六日付のサンフランシスコの「デイリー・アルタ」紙は次のような記事を載せている。
「元のグレーナ・ランチ、いまのアズ・ランチを、日本人の植民地としてスネールは購入した。柵を囲らした六百エーカーの地で、七年ものの果樹、五千本の葡萄、別に水を引く必要もなく、小麦は十分の収穫がある。また家具の備えつけのある煉瓦造りの家、倉庫および農具もある。全部で五千ドル。スネールはここにワカマツ町を建設せんとしている。どの家族も小住宅と庭を有し、野菜をつくるにも、草花を植えるにも十分である。日本人は庭園の趣味を有し、清潔にして、良く命を守る。やがてワインの醸造も始まるであろう。また植木園をはじめカリフォルニアにない茶、竹、蜜柑等、日本の樹を育てるであろう。」(『在米日本人史』)
しかし、ワカマツ・コロニーは、気候風土の関係で栽培は予定通り進行せず、生糸の生産計画も失敗、その後はもっぱら茶の栽培に重点をおいたようである。加えて、一行中からは病気に患る者が続出、土地代金の残額支払いもとどこおったままだった。スネールは一八七〇年、ついに一行を置きざりにして妻子をつれてひそかに日本に帰ったといわれる。残された会津移民は途方に暮れ、現地に残る者、他に転ずる者ありで、このワカマツ・コロニーは四散してしまった。
さて、スネール一家に置きざりにされたおけいは、近所のヴィア・キャンプ夫人に保護されて、家事、料理、裁縫などを習い、同家で暮していたが、一八七一年病に患って、異郷でのわびしい生涯を閉じた。享年一九歳。一行中の農夫、桜井松之助はおけいの死を悲しみ、石工に頼んで大理石の墓石に自ら「おけいの墓」と書いて刻ませ、農園の一角に建てた。この墓石はいまも残っているが、日本女性の墓碑としてはアメリカ最古のものだろう。
おけいの物語は日本で昭和一三年、東宝によって映画化されたことがある。ヒロインのおけい役には山田五十鈴、共演者は嵐寛寿郎である。全国で上映されたが、ほとんど評判にならなかったという。
ワカマツ・コロニーが解散したあと、各地に散った日本人たちのうち、自分の特技を生かしていろいろな分野で活躍した人もいたようである。大工の増水国之助は、同行者のすぐれた宮大工、大藤松五郎なる者の弟子であったといわれているが、二人は現存するカリフォルニア最古の二階建木造建築、コルマ・ホテルの建築に加わったという。国之助はそのあともカリフォルニア州フレスノ市のフレスノ仏教会大会堂を建てている。かれは黒人女性と結婚し、サクラメントに居住、一九一五年九月一三日コルサで死亡している。現在でも、コルマにはかれの建てた小屋が残っていると聞く。また国之助は英語を能くし、日本人の通訳にもあたったともいわれている。コルサには日本人有志によってかれの記念碑がのちに建てられた。
もうひとり、農夫で梅三郎なる人物も面白い。かれは黒人を雇ってアメリカン川の支流で金を採取していたと伝えられている。もし、このことが事実ならば、ゴールド・ラッシュとは時期的に多少のズレがあるものの、ジョン万次郎のほかにもカリフォルニアの金鉱探しに従事した日本人がいたことになる。

日本人労働者の役割

中国人を締めだしたあとでもアメリカの経済力はまだまだ労働力を必要としていた。西部のなかでもとくに山中部と呼ばれたモンタナ、ワイオミング、ユタ、ネバダなどの各州では、鉱山開発はめざましく、当然多くの労働力を必要としていたのである。そこに、中国人の代わりとして登場したのが日本人労働者だった。
日本人坑夫たちは飯場制度にも似たボス制度の下に、小は一〇数人、大は二〇〇人以上のグループを構成して、つねにガス爆発や落盤など生命にかかわる危険な現場で働かされた。かれらが集団で生活を営んだ坑夫村は「ジャップ・キャンプ」と蔑称されていた。ジャップ・キャンプといえば、太平洋戦争の開戦時に、西海岸に在住していた日本人が強制収容されたさいのキャンプのことがすぐ連想されるのであるが、それよりもかなり前にすでにこのような意味でのジャップ・キャンプが西部の諸州に少なからず存在していたのである。これはのちのことになるが、日本人鉱山労働者の数もかなり少なくなったと考えられる一九二四年、ユタ州ソートレーク市の日本語新聞、絡機時報社から発行された『山中部と日本人』には、ユタ州だけでも一九にのぼるジャップ・キャンプの広告が載っているほどだから、最盛期にはかなりの数で存在していたのであろう。
日本人がアメリカの鉱山関係の労働に従事したのはさきにも紹介した一八五〇年(嘉永三)のジョン万次郎の砂金採取や、田中鶴吉が一八七二年(明治五)ごろ、当時有名な銀山であったネバダ州のボナンザ鉱山で坑夫として働いたのが最初であろうともいわれている。また、信州上田の藩主松平忠礼の弟である松平忠厚が一八八六年(明治一九)ごろに鉱山技師としてコロラド州で活躍したと伝えられている。そのほか、一時的に多少とも鉱山に関係のあった初期の移住者はほかにもいたであろうと思われる。事実、多くの日系移民史関係の本には、一八九一年(明治二四)にカリフォルニア州のテラス炭鉱で日本人が坑外の雑用に従事したと書かれてある。
しかし、日本人が本格的に坑内夫として働いたのは、人夫請負業の西山元が一八九八年(明治三一)にワイオミング州ロックスプリングスのユニオン・パシフィック鉄道会社経営の炭鉱に数十名の日本人を坑夫として供給したことがはじまりであるといわれている。それを契機に日本人労働者の数は急激に増加し、多いときには西山の配下には五〇〇人以上もいたといわれた。西山は坑夫斡旋業をはじめた最初の人であると伝えられている。
このように、鉱山の日本人労働者が多数就労した背景としては、まず鉄道の場合とおなじように、中国人労働者との交替という側面があったことはすでに述べたとおりであるが、いまひとつ、アメリカにおける労働運動の進展という事情もあった。このころのアメリカでは労働者が権利意識にめざめ、各地に労働組合が結成されて資本家に対抗し、地位向上をはかっていた。
労働騎士団(ナイツ・オブ・レイバー)というアメリカの初期労働運動史上でも有名な労働組合は、一八八六年には、組合員数が七〇万人にも達し、一大勢力を形成していたといわれている。これに対して、資本家側、とくに鉱山会社は、同一人種で同一言語を話す労働者が多数を占めると団結力が強まることを恐れて、できるだけ多くの人種による従業員を構成することで対抗しようと図った。さらに、日本人労働者は、ボス制度によって、ボスひとりとの交渉で多くの労働者を雇い入れることができ、労働運動についての知識や意識も少ないうえに、ボスによる監督支配が徹底しているなど、会社側には好都合の条件がととのっていた。こうした理由から日本人坑夫は採用され、歓迎されたのであった。

ジャップ・キャンプ点描

ジャップ・キャンプでの暮しの例として、ワイオミング州のロックスプリングス炭鉱をとりあげてみよう。この炭鉱は、ユニオン・パシフィック鉄道会社経営の炭鉱を中心として、アメカ一の良質の石炭を産出していた山中部諸州のなかでも最大の炭鉱町で、一時は人口二万八○○○人にもなっていた。また、一八八五年に、いわゆるロックスプリングスの大虐殺といわれる白人労働者による中国人坑夫虐殺事件が起きたところとしても有名であり、さらに、日本人が坑内夫としてアメリカで最初に就労した炭鉱として、日本人坑夫の数もいちばん多く、西部でも最大のジャップ・キャンプが形成されていたところである。
ロックスプリングスでは四九ヵ国におよぶ国籍の坑夫が働いていた。それに応じて四九軒の国籍を異にする酒場があり、二二軒の賭博場があった。さながら世界中から集まった出稼ぎ人の町といった雰囲気がつくられていたのである。
そのなかで、日本人の生活はどのようなものだったのか。かつて私が偶然出会った熊谷標三老人の話から、当時をふりかえってみよう。おそらく熊谷老人は当時を知る唯一の生き証人だったろう。
この老人は一九〇七年(明治四〇)、父親につれられて渡米し、この炭鉱町のジャップ・キャンプの住人となった。かぞえ年で一四歳のときであった。そこには二七二人の日本人がいた。女四人、子供六人も含まれていたが、日本人坑夫のほとんどは独身者か故郷に妻子を残してきた男たちで、最年長者でも秋田県出身の鈴木政次郎の三九歳であった。ボスは福岡県出身の権藤誓吟という男で、さきの西山元のあとをうけて、ジャップ・キャンプを支配するようになっていた。
日本人坑夫の大部分はこの炭鉱の第七坑と第八坑で働いており、ほかに第九、第一〇坑で働いていた者も若干いた。ジャップ・キャンプは、その第七坑と第八坑のあいだに位置していた。なお、そこから二、三マイル離れた町の方にも日本人が一一〇人ぐらい住んでいて、炭鉱に通っていた。
炭鉱には四〇ヵ国以上の国籍のちがった者が働いていた。なかでも南欧系がいちばん多く、イタリア人のイタリアン・キャンプやギリシャ人のグリーク・キャンプもあったが、かれらは日本人のような集団生活を好まなかったようで、日本人が二、三〇〇人もいっしょに住んでいるのを見て珍しいと言っていた。
採炭の仕事は、白人坑夫は午前七時発の坑内電車(六人乗りの石炭箱)で仕事場までいくが、日本人坑夫は午前二時に起きて朝食をとり、二時四五分には家をでた。腰にはランプ用の油三合をつけ、左手に弁当箱、右肩にツルハシをかついで、坑口から自分の仕事場まで約三、四マイルの坑内鉄道線路を歩き、午前五時ごろまでに自分の採炭場に着いた。そしてたっぷり一二時間を坑内で働き、午後五時半発の坑内電車で帰るという一日であった。
キャンプ生活は殺伐としたもので、酒を飲むか博奕をする楽しみしかなく、ピストルの音の聞こえない晩はなかった。その他の娯楽といえば夏の夕方、キャンプのそばのゆるい坂に五、六〇人が腰を下ろし、坑夫のなかで字の読める者が『伊賀越の仇討荒木又右衛門』などという講談本を朗読するのを聞くことであった。禁酒時代(一)には、キャンプでもさかんに密造酒がつくられ、皆はそれを「ムーン・シャイン」(月の光)と呼んでいた。それ以前はイタリア人のマイコーという老人が馬に荷車を引かせて週に一、二回、ジャップ・キャンプに酒を売りにきた。酒好きの連中は、マイコーのくるのが待ちどおしく、なにかの都合で遅れようものなら、アル中気味の連中が暴れまわった。熊谷老人は「七〇年たったいまでも、酒を売りつくして空車で帰るマイコーの笑顔が忘れられない」と話していた。
老人の話から推測すると、炭鉱夫の生活は、当時鉄道工夫が「鉄道工夫が人間ならば、トンボやチョウチョウも鳥のうち」と歌われていたよりは、まだましなようである。ただし、炭坑での事故は、死につながる危険なものであった。
このほかに、キャンプ生活を物語る資料として、カリフォルニア大学ロサンゼルス校にある「日系アメリカ人研究プロジェクト・コレクション」のなかに、キャンプのボスの妻であった豊田カメの「自叙伝」がある。この手記は女性として、またボスの妻という立場から、ネバダ州の銅山のジャップ・キャンプにおける日本人たちの生活が詳しく伝えられており、貴重な資料である。
かの女は、ここの日本人を見て、「かかるへんびな山奥に来働する者は学の有無にかかわらず、三道楽にこった者かまたは辛抱人で送金狂に等しい者かであろう」と嘆息まじりに書いている。
この言葉はキャンプ生活の実態がどのようなものだったのかを端的に物語っているようだ。
豊田カメの記録には、キャンプ内での犯罪の記述が多くみられることも注目していい。ジャップ・キャンプはアメリカ社会からまったく孤立していたし、日本人にはアメリカ社会に参加せず、"別世界"に住んでいるという意識があったためか、一種の治外法権地帯に住んでいるという思いがあったのではあるまいか。現にジャップ・キャンプ内での犯罪に対してアメリカの警察当局の取り扱いも、治外法権地域における犯罪に対するものとあまり変わらなかったようで、殺人などの重罪もしばしば一時的精神錯乱として無罪となるケースが多かった。事件を正式にとりあげると裁判に日数と費用を要するので、簡単に精神錯乱として片づけてしまったのだという説もある。さきの熊谷老人は「ジャップ・キャンプでの事件は、イヌかネコの喧嘩と警察は考えていたのでしょう」と語っていたが、これもある程度までは、あたっていたのではないかと思われる。
こうした孤立したジャップ・キャンプとは対照的に、ヨーロッパ系の移民相互の間では、国籍間の垣根がとりはらわれて、たがいに交わるようになることが多かった。しかし、日本人移民は、いつまでも自分たちだけの集まりを保ち、他と交わることがなかった。もちろんそこには、人種差別の壁が存在したであろうことはいうまでもないが、いずれにせよ、ジャップ・キャンプは西部の鉱山開発の歴史のなかできわめて独特な世界を形成していたのである。

『大西部への道』

大西部への道をとりあつかった文学作品をあげるとすれば、まず現代の西部作家の第一人者、A・B・ガスリー・ジュニアの『大西部への道』であろう。西部のモンタナ州育ちのガスリーは、この作品でピュリッツァー賞を受賞したし、一九六七年にはユナイテッド・アーチスト社から同名のタイトルで映画化された。これについては第一章のところで紹介したが、物語はミズーリ州のインディペンダンスからオレゴンにいたる約二〇〇〇マイルのオレゴン・トレール長旅に不劇な移住者の一隊が数々の困難を克服して進むという筋である。
ガスリーのこの作品が与えた功績は、従来、興味本位にロマンチック化されてきた幌馬車隊の歴史的史実として読者の前に提供したことであった。かれが作品のなかで強調したのは、幌馬車隊が遭遇する本当の危険や脅威は、インディアンや自然の猛威よりも、むしろ、ごく普通の人間のうちに生まれる不平や不満であるという点である。こうした視点から描かれる物語は、人間集団の縮図的な要素をもっているともいえよう。だから、道中での主な関心事は、開拓者が旅の途中でいやおうなくつきつけられる新しい生活への要求に対応して、それに適応する能力を自分たちのなかに発見し、環境に適応しないかつての文明生活の殻から脱皮することを学ぶことであった。こうした訓練は、めざすオレゴンでの新生活にかれらがすでに適応しようと心の準備をしはじめていたことを象徴しているし、困難やそれへの臨機応変性は、西部ですぐれた社会をつくりあげる能力の芽生えをほのめかしているのであった。

鉄道建設と日本人

パシフィック鉄道の建設に東洋人として早くからたずさわっていたのは、やはり中国人である。しかし、かれらはさきにも見たように、排斥によって締めだされてしまったために、各鉄道会社は深刻な労働力不足に悩むことになった。そこで、同じように低賃金ではあるが、勤勉な日本人労働者に着目し、これを積極的に受け入れて歓迎するようになったのである。
アメリカ西部の鉄道の建設や保線のために、日本人工夫が本格的に働くようになったのは、田中忠七という水夫あがりの男が、一八九一年にユニオン・パシフィック会社と人夫請負契約を結び、三〇名ほどの日本人労働者を供給したのがはじまりといわれている。そして、かれらの働きぶりが評判になったため求人は急激に高まり、各鉄道会社における日本人工夫の数は急増していった。鉄道会社のなかには、日本人の人夫請負会社と一〇〇〇人、二〇〇〇人という多数の人夫供給の契約をするものもあらわれた。それでも、労働力不足はいぜんとしてつづいていたので、当時の鉄道界の大物グレート・ノーザン鉄道会社の社長ジェームズ・J・ヒルは、一九〇六年三月二六日付で、高平小五郎公使に、すくなくとも三〇〇〇人から五〇〇〇人の日本人労働者を雇用したいので渡航させてくれるように依頼しているほどだった。
一九〇五年、桑港(サンフランシスコ)日本社発行の『在米日本人年鑑』によると、当時の在米日本人は六万一三八四人で、うち一万一六八三人が鉄道労働者となっている。つまり、日本人の六人に一人が鉄道で働いていたことになる。しかも当時、在米日本人の三分の二が住んでいたカリフォルニア州では、日本人労働者は主に農園労働に従事していたことから考えると、他の北部や山中部諸州にいた日本人労働者のほとんどは鉄道で働いていたことになる。その証拠に、日露戦争ごろより急激に増加した日本から直接渡航した出稼ぎ移民や、また従来から多かったハワイからの本土転航組は、その大多数が、港に待ち受けていた人夫周旋人の手によって、アイダホ、ユタ、ワイオミング、ネバダ、コロラドなど西海岸から六○○○マイル以上も離れた内陸の山中部諸州に、鉄道工夫として送られたという。その数は、ロサンゼルスの日本語新聞、「羅府新報」(一九六七年四月二〇日付)によると、一八九七年には約一万三〇〇〇人にのぼっているとあるが、このころが最盛期に当たるので日本人工夫の数も最高に達したと推定される。
こうした数字からみても、日本人移民にとって、鉄道労働がいかに大きな比重を占めていたかがわかるであろう。当時、この鉄道労働の需要は無限と考えられており、人夫請負業者を通じての人夫募集には多くの日本人がつめかけ、その上、賃金は、一〇時間労働で一ドルから一ドル二五セントと、他の職業にくらべると三〇セントから四○セントも高かったから、日本人の渡米熱はさらに白熱したものとなった。
鉄道労働に従事した日本人は、おもにギャングとかセクション、またラウンド・ハウスと呼ばれるところに籍をおいた。
ギャングというと、有名なシカゴのギャングを連想するが、ここでのギャングは本来の意味である労働者の「組」とか「グループ」といったものをさし、日本人で編成された組は「ジャップ・ギャング」と呼ばれた。ギャングのなかには日本人ばかりでなく、イタリア人の「イタリアン・ギャング」もあれば、ギリシア人による「グリーク・ギャング」などもあった。ギャングは普通一組五〇人以上で、すくなくとも三〇人を下ることはなく、大きなギャングになると一五〇人から二〇〇人というのもあったというが、ジャップ・ギャングの場合は平均五〇人程度であったようだ。一九〇六年ごろのソートレークの橋本大五郎配下のギャングだけで一〇組もあったし、一九一一年ごろのオレゴン・ショートラインだけでも七組のジャップ・ギャングがあった。これらのギャングには、ギャング長一人と料理人一人が加わっていた。かれらの仕事は、線路の新設工事や事故の応急処理など、少人数ではできない現場での労働であり、そのため、たえず三〇〇マイルも五〇〇マイルも移動して働いたのである。住み家は列車や貨車をすこしばかり改造したもので、一輌あたり八、九人が住み、その生活は味気なく、殺伐なものだったといわれている。
つぎに、セクションとは「区間」を示す意味からきており、一定区間、だいたい五マイルくらいの間(事故多発区間はもうすこし短い)の線路の保線に従事したグループのことをいい、このセクションで働く鉄道工夫を「セクション・ボーイ」と呼んだ。一組のセクションは六人から八人くらいが普通であったが、列車本数のすくなくなる冬季は二人ぐらいに減らされることもあった。
各セクションには、「フォーマン」と呼ばれる工夫長が一人いた。このフォーマンになるのははじめのうちは白人がほとんどで、その下に「サブ・フォーマン」と呼ばれる日本人工夫一人がついたが、のちには、日本人でもフォーマンになったものが多かった。
セクションで働く日本人工夫は、ギャングの場合と同様に、ほとんどの者が独身者で、小さなバラックか古い貨車を留め置いたものを家がわりとして住んだ。
一九一〇年、大和久義郎外務書記生からの「北米合衆国モンタナ州視察復命書」にも「鉄道働キノ常トシテ貨車又ハ最粗末ナル陋屋ヲ家トシ一車二八人多キハ十人同宿シ一日/労慰スルニハ甚足ラザルノ感アリ」とセクションの様子が述べられている。灼熱の砂漠地帯や極寒の草原地方のへんぴなところで、しかも線路ばたの古い貨車などに住んで重労働に従事するなどということは、当時の白人労働者には考えられないことであった。しかし、日本人労働者はひたすら故国送金のため、食費もきりつめどんなところも厭わず働いて金を稼いだのである。
さらに、ラウンド・ハウスとは、円形の家、つまり円形機関車庫をあらわし、このなかで働く人夫のことをさした。ここでの仕事は機関車のエンジンを洗浄したり車輪を磨いたりする、もっぱら単純な掃除や手入れであったが、要領がわかるまでは馴れないためもあって、たいへんな仕事であったようだ。とにかく、煤と油まみれの汚い仕事であった。
セクション・ボーイの体験をもつ一世の話では、曠野にポツンとおかれた古い貨車に住み、飲料水は一週間に一度だけ汽車で配給してくれた。食料は月に何度か、メリケン粉の袋などを通過する列車が落していった。食事は毎日、毎食、わずかなベーコンでダシをとり、線路ばたの雑草を入れた団子汁ばかりをつくって食べたという。この「ベーコン入り団子汁」は、鉄道働きの話には必ずでてくる”メニュー"である。ある日本人のフォーマンは、子豚が汽車にはねられたという事故を報告するときに、子豚という英語を知らなかったので、毎日食べているベーコンはブタであることから連想して、「ベーコン・ボーイ」と直訳ふうに表現したそうである。いかにベーコンがかれらの生活と密接な関係があったかを物語るエピソードである。
メリケン粉の団子汁と重労働がうちつづく三六五日では、栄養失調になるのは当然であった。日本人工夫のほとんどは鳥目(夜盲症)にかかった。そうなると、日没後の仕事ができないので、事故が発生しても夜間作業には、さすが働き者の日本人工夫も役立たなかった。かれらはその治療に農家から鶏を買って、そのスープを飲んだ。この「鳥目と鶏スープ」も鉄道働きにはつきものの話であった。
これらの鉄道労働に従事する人夫を鉄道会社から請負って募集して供給したのがさきの田中忠七をはじめとして続々とあらわれた日本人ボスたちであった。かれらの勢力範囲は次第にひろがり、やがてワシントン、オレゴン、カリフォルニアからアイダホワイオミング、ネブラスカ、ユタ、コロラド、ネバダ、モンタナの西部諸州におよぶようになった。
このボス・システムは、鉄道労働に限らず他の働き口についても同じで、他の国からの移民社会にはみられない日本人社会独特の雇用形態であった。これは各種の労働に従事する場合、労働者が直接に雇い主に交渉して雇われるのでなく、その中間にボスなる者がいて、これを通して雇われるというものである。そこには当然、中間搾取があり、〝権力"の集中があった。こうなると、ボスのなかには、手数料を取ったり給料のピンハネ、物品販売はもちろん、賭博場を開帳したり売春婦を斡旋したりして莫大な利益を貪る者もでてきたのである。いかにも日本人的なシステムであったといえるだろう。
一九〇五年、六年を頂点として全盛を誇った日本人の鉄道労働者だが、翌一九〇七年のハワイからの米国本土転航禁止、そして一九〇八年の日本政府による移民送出自主制限、いわゆる「日米紳士協約」など、排日気運の盛りあがりにより、労働者補給の途を絶たれ、その数も次第に減少していった。
また、鉄道労働は高い賃金に魅力があったというものの労働期間に季節性があったからそうそうに喜んでばかりもいられなかった。たしかに、夏場は物資の輸送もふえ、それだけ賃金も保証されたが、冬場になると輸送量はガタ減りする一方で、労働力はあり余るため賃金も低くなった。そうなると、年間を通した収入は農園労働の方が良くなる計算になり、安定性を求めて、そちらに転業する者もすくなくなかったのである。さらに、独身のうちはいいのだが、世帯をもつようになると、子弟の教育などに関してどうしても辺地では不便で、都市へ出ようとする者もふえた。一世の鉄道労働者は、やがて老齢期を迎えて退職して都市へ出るか、あるいは帰国し、二世はへんびな田舎での重労働を嫌ったので、鉄道工夫の数はますます減る傾向に向かったのである。
「羅府新報」の報道によると、鉄道における日本人労働者の就労人員は、一九〇九年には一万人、一九一三年四五五三人、一九二〇年四三〇〇人となり、さらにつづいて、『アメリカ移民百年史』の統計では、一九三〇年には二一四八人へと減少している。
こうなると、あわれをとどめたのは鉄道ボスたちであった。かつては〝王侯貴族"のような豪勢な生活を誇ったかれらではあったが、これが一転して奈落の底の貧乏生活につき落され、その末路もあわれなものに終わった者が多い。
その後も、鉄道と熟練をつんだ日本人労働者の関係は細々とつづくが、最終的なピリオドがうたれたのは日米開戦時のことであった。鉄道は軍事上、重要な輸送機関だとして、西部防衛軍司令部当局は、日本人労働者の解雇命令をだしたのである。そして戦後、鉄道は斜陽産業となり、日本人や日系人の労働者の姿はほとんど見られず、昔日の面影はなくなった。
しかし、衰退の歴史をたどってきたというものの、日本人移民がアメリカの基幹産業であった鉄道の建設や保線の仕事に従事し、今日の巨大なアメリカ資本主義の発展への礎になり、ま西部開拓に縁の下の力持ちとなって大きな貢献をなした事実は永久に消えないだろう。その意味で、日本人労働者はアメリカ西部開拓のために闘った多くの無名戦士たちのうちのひとりだったのである。

インディアンに対する強制移住

このような強制立ち退きは、アメリカ史上において実はもう一例ある。一九四一年一二月の日米開戦によって、アメリカ市民である日系二、三世をふくむ約一一万人の日系人が太平洋岸から強制立ち退きさせられ奥地のキャンプに隔離収容された事例である。これは米軍西部防衛軍の強い要請にもとづく防衛的見地からの政策であったといわれているものの、日系人たちにとっては砂漠地帯の殺風景な荒地の真ただ中に急造されたバラックに入れられ、軍によって厳重に監視されるという事実から、明らかに人種差別からくる人権の侵害があった。アメリカの歴史にとって、こうした人種隔離は永遠に消えない汚点となったのである。
インディアンに対する強制移住に対して、もちろん抵抗を試みる部族もいないわけではなかった。一八三二年のブラック・ホーク戦争はまさにインディアンによる抵抗戦であった。当時、北西部に居住していたサック・アンド・フォック族が酋長のブラック・ホークに率いられて、移住法に抵抗ののろしをあげたのだった。かれらはアメリカ陸軍とイリノイ州の民兵に対峙してはげしく戦ったが、ブラック・ホークは逮捕され、蜂起は失敗に終わった。この戦いは別の面でも注目すべきエピソードを残している。ほかでもない、政府軍に参加していた兵士のなかに、第一二代大統領のザッカリ・テイラー(一)と、あの奴隷解放の立役者、第一六代大統領のアブラハム・リンカーン(一)がいたことである。「人民の人民による人民のための政治」をうたった政治家も若き日にはインディアン制の戦いに参加していたのである。

フィリップ・シェリダンはニューヨーク生まれのオハイオ州育ちで、陸軍士官学校卒業後、南北戦争で勲功をたて、異例の昇進を果たしたことで知られている。インディアン対策にはいずれもきびしい将校連中のなかでもかれはその急先鋒で、誰よりもインディアンに冷厳さをもって臨んだ指揮官であった。かれにも有名な言葉がある。「良いインディアンとは死んだインディアンである。」これは、「私の知っている良いインディアンは必ず死んでいる」という言葉が原形だったといわれているが、かなり冷たく、ぞっとするようなアイロニーに染っていることにかわりはない。

インディアンに関する文学作品

インディアンの生活についての現代風なとり扱いに関する明確な考えを描いたものに、ベストセラーとなった『森の中の光』(左)がある。舞台は一八世紀半ばのペンシルバニア西部のフロンティアで、厳密には真の西部ものとはいいがたい面もある。一五歳の白人少年についての単純な物語である。少年は幼児のころインディアンに連れ去られ、ツルー・サン(実の息子)という皮肉な名前をつけられて育てられ成長する。やがてインディアンたちは白人の捕虜となり、かれを文明化しようと願う本当の両親のもとに返されるが、両親の努力は無駄に終わる。しかし、白人の慣習に対するかれの抵抗も、弟のゴーディへの愛情から次第に弱まってくる。ある日、インディアンのいとこのハーフ・アローが姿をあらわし、かれを誘ってインディアン部落へ逃げ帰ろうと脱出する。二人は途中で魚を獲って食べるなどして牧歌的な旅をつづけるが、やがてインディアン村に帰る。村には白人によって殺されたツルー・サンの友だちのリトル・クレーンの親類が住んでいて、白人への復讐に燃えている。そこには複雑な背景がひそんでおり、ツルー・サンの白人の叔父が実はリトル・クレーン殺しの犯人であるが、かれもまた自ら真のインディアンとして証明したいという気持から、この仇討の旅に同道する。一行は大きな川の岸で待ち伏せて、通過する船を襲うためツルー・サンをおとりにする。最初に通りかかった移住用の平底船はかれを見て救けだそうと岸に近づいてくる。しかし、その船上に弟のゴーディを思い出させるような小さな子供の姿を認め、ツルー・サンは思わず「子供を隠せ!待ち伏せだ!」と叫び、船を襲撃から守るのだった。インディアンはツルー・サンを追放することを決め、白人の通る道までかれをつれていって、そこで捨て去るのである。
この物語の象徴的な構成について、リクターは読者への短い序文のなかで、インディアンと白人との生活が両立しないことを書くのは、文明による個人の自由の剝奪に対する比喩であると述べ、個人に対する「制限が比較的すくなかった二〇〇年前でさえも、われわれの理想と制された生活様式がインディアンを追いはらったのだ」「われわれは、アメリカの自由といううぬぼれのために、かなり多くのものを文明化によって、すでになくしていることを忘れがちであると指摘すること」が本書の目的のひとつであるとし、現代文明を批判したのであった。

現代文明の風刺「捕虜物語」

このツルー・サンのようなインディアンと白人との両文化のはざまに成長した主人公が心理的葛藤を展開するという物語は、アメリカ文学においてはかなり古くから好んで用いられた手法であったが、とくに現代文学においては、問題のあり様を尖鋭化する上からも、また物質と精神との離反に悩む現代人の心理描写をする上からも大いにうけ入れられやすいことであった。それは、いわば「捕虜物語」というジャンルを設けてもいいほどで、多少異なった話の筋であっても、白人であるかれ、あるいはかの女がはからずもインディアンに育てられ、その社会の野蛮性や残虐性をわかりかけるまでに成長してからの物語が多いが、なかにはツルー・サンのようにインディアン部落にとどまっていることに抵抗をもたない捕虜たちの物語もすくなくない。

さて、『アメリカの農夫からの手紙』の終わりの方に「フロンティア人の悲嘆」と題する手紙がある。そこで作者は、インディアンに捕われた白人がもとの古巣に送還されることを拒んだいろいろなケースについて言及しているのでその一端を紹介しよう。インディアンとの戦いが終わってから、白人の親がかつて連れ去られた子供に会いに行くと、子供たちはもう完全にインディアン化していて白人の両親を見向きもしない。やはりインディアンに捕えられたイギリス人とスウェーデン人は、もうそのときは一人前の大人であったけれども、インディアンの妻をめとり、その生活にも慣れていて、インディアンがかれらを解放しようとしたにもかかわらずそこにとどまって帰ろうとしなかった。こうした見聞を述べたあと、クレーヴクールは、インディアンの社会には完全な自由や安易な生活や、われわれが悩まされるような心配事がない、どうもわれわれ白人の社会よりもはるかにすぐれた、何か特殊な魅力をもった社会的な絆があるにちがいないと書いている。
さらに言及し、こうして[* 何千人というヨーロッパ人がインディアンになっているが、逆にインディアンが自ら進んでヨーロッパ人になった例はひとつもない。]そうであるならば、インデイアンの社会には、われわれ白人が生活している虚偽にみちた社会にはない、人間がもって生まれた性質に真に適するような、なにかがあるにちがいないと思われる。だからこそ、子供だけでなく大人さえも、ほんの短期間の生活で、インディアン社会にあのような強烈な愛着をもつのだろう、と秘密のベールをぬぐように好奇心にみちた目を向ける。
『アメリカの農夫からの手紙』は、捕虜物語が小説的なテーマになり得る可能性があったことを早くから指摘していたのである。

ルメイの『捜索者』

現代版「捕虜物語」に関して二つの小説を書いた作家にアラン・ルメイ(1899-1964)がいる。…最後の二作品が「捕虜物語」であり、『捜索者』は一九五六年、ワーナー・ブラザース社制作、ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演で映画化されているし、一方の『許されざる者』も一九六〇年に、ユナイテッド・アーチスト社制作、ジョン・ヒューストン監督、バート・ランカスター、オードリー・ヘップバーン主演で映画化され、有名になった。…
『捜索者』はテキサスに場所をおいた古典的な「捕物語」である。コマンチ族の襲撃で両親を失ったデビー・エドワーズという一〇歳の女の子と姉とが連れ去られるところからはじまる。救出隊が派遣され、捜索者たちは途中姉の方が死んでいるのを発見するが、インディアンを見失って帰ってくる。二人の姉妹の叔父であるエイモス・エドワーズは捜索をあきらめず、もらい子の兄弟として育ったマーチン・ポーリとともに煙を捜しつづける。マーチン・ポーリもまたむかし両親をインディアンによって殺害されている男だった。捕虜になったデビーについてのさまざまな噂が大平原のいたるところに流れており、二人の男は噂から噂へとさまよいつづけ、いつしか六年を費してしまった。マーチンはデビーの肖像画を肌身離さずもっていたが、それもすっかり汚れてすりきれてしまっていた。現実的に考えれば、デビーは大きくなって、むかしの習慣も考え方も忘れてしまっているはずなのに、マーチンにとってのデビーはむかしのままの可愛らしい女の子のままである。そこにはかれの想像力が欠如しているというのではなく、コマンチ族のなかで育った身内の姿を現実的に認めることの恐怖があるのであった。そして、ついにインディアンの一団を捜してる日がやってきた。だが、二人の捜索者が目前に見たものはあまりにも衝撃的なものだった。デビーはむかしのままの女の子でないばかりか、すっかりインディアンとして成長した見知らぬ女性となって立っていたからである。マーチンの眼をとおして見た最後の光景では、デビーの顔は「優美につくられていて、いまや成熟した花のようではあるが、その表情には錠をかけてしまいこまれたような」ものが宿っている。そして「ちょうどインディアンが他人と向かいあうような無感動さ」を見たのであった。自分が長い間もち歩いていた小さな肖像画の少女のおもかげはもはやそこには認められない。なぜなち「この長い年月愛しつづけた顔の背後には、コマンチ族の女がいたからである」と結ぶ。デビーの冷たい無関心な瞳にマーチンは戦慄をおぼえ、長年の捜索は全くの無駄だったことを思い知らされるのだった。
この小説が延々とあきもせずつづく追跡劇にもかかわらず一種の緊張感と迫力を行間にもたらしているのは、この寓話的な物語のもつ不安感が二人の捜索者のなかに宿っているからであろう。それはサスペンスドラマに似た不安感である。二人の男が、一〇歳の姪のいとしいおもかげを胸に抱いてまるで坐折を知らない人間のように大平原追跡の旅を執拗につづけるという単純な設定とは裏腹に、かれらが時間の経過という現実の恐しさに目をそらしているというきわめて複雑な心理的設定である。そして、読者にとっては救出劇だったはずのストーリーが最後になって大きなドンデン返しにあう意外性―いわば〝真の救出でなかった"という寓話的な要素がひそませてあるのだ。このなかで、作者が狙った最も大きな問題は、恐しい世界からデビーを救おうとした男たちが、最後に見たのはデビーが救出されることも願っていないし、それをとおして見たインディアン社会が想像した恐しい世界とはちがったものであったという意外な真実であろう。実は、これこそ二人の捜索者がいちばん怖れていたことなのであった。ルメイはこの小説において、必ずしもインディアン社会の現実性を描いたのではなかった。むしろ、物語を単純化し、推理小説の面白さを強調するためにコマンチ族を人間に準ずる獣類的悪魔に位置させるという非現実的なとり扱いを示した。その意味では、インディアンの生活に関する歴史的事実に最小限度の注意しかはらわず、ごく抽象化された寓話的性質を与えたのであった。したがって、そこには捕虜の存在をとおして、インディアン社会の素晴しさを言及するといった視点はあり得なかったし、主題ではなかったのである。

有刺鉄線とピストル

さらに俗語では、ピストルのことを「イコライザー」(equalizer)という。つまり「平等にするもの」とか「不公平を直すもの」という意味からきている。世のなかの不公平をなくし、不正を正し、悪を懲らしめるのにガンを使用するというわけで、このあたりは当時の西部の社会や風潮を物語るものである。
ところで、このイコライザーについての余談であるが、現在もアメリカのテレビの人気番組に『イコライザー』という連続ものがあるのをご存じだろうか。ちょうど日本のテレビの番組にもある「必殺仕掛人」あるいは「仕置人」ものシリーズと同様に、立場の弱い依頼人の頼みにより、警察など当てにせず、西部開拓時代の自警団的な発想で、巨悪の真犯人を探し当て、ガンによって問題を解決するという内容のものである。もっとも、この『イコライザー』といテレビの題名は「不正を正し世直しをする人」と、「ピストルという武器」の両方の意味がかかっているものであり、ストーリーの時代設定は二〇世紀の現在であり、舞台は大都会となっている。
国情の違いはあっても、また時代を超えても、やはり大衆は勧善懲悪ものに共感をおぼえ拍手を送るのであろう。このようなことから西部開拓時に「コルト判事」が大活躍したことや、今なお「イコライザー」を取り扱った作品に人気が集まる秘密が隠されていると思われる。

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