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娘は淋しさと虚しさに荒れる。

#20240503-391

2024年5月3日(金)
 初夏と呼ぶにぴったりの強い陽射しのもと、ノコ(娘小5)が塀を蹴っている。ノコの背では見えないのだろうが、塀の向こうは墓地だ。
 ――他人の所有物である塀を蹴るという行為。
 ――足先を傷めかねない自傷的な行為。
 どちらもとがめたいが、今のノコに何をいっても激しさが増すだけだ。
 いつまで続くかわからない。日向で見守るのはしんどい。
 私はほんの少し離れた電柱の日陰に入った。
 「へええええ、私を置いて行くんだ! ひどいね!」
 ノコが叫んだ。
 手は届かないが、ほんの3mメートルばかり。十分見える距離だ。
 「暑いから、日陰に入っただけでしょ」
 声にため息が混じる。
 「私がどうなってもいいんだ! ママってヒドイね!」
 休日の午後。静かな住宅地にノコの怒声が響く。軽自動車が角を曲がってきた。運転席の男性と目が合った。怪訝な目だ。

 先ほどまで、ノコが育った乳児院で里親子の交流会があった。
 乳児院は乳児から2歳程度の乳幼児が暮らす施設だ。場合によっては3、4歳まで過ごすこともあるが、就学する前に児童養護施設に移る。
 その乳児院から里親に委託された里子たちの集まりゆえ、幼児が多い。大きくても小学1年生。小学5年生のノコは最年長だ。
 世話好きなノコは、初対面の子どもたちに臆せず声をかけはじめる。
 5歳の男の子にはノートを出し、新幹線を描いてやる。小学1年生の女の子とはシールで遊び、よちよち歩く小さな子とは歩調を合わせて追いかけごっこをする。時折、テーブルにあるジュースやお菓子をつまみ、また遊ぶ。
 遊んで遊んで遊んで。
 解散時刻が近付くと、ノコは落ち着きをなくす。
 トイレに行くよう促せば、口を尖らせ、スリッパを蹴る。集合写真を撮るとなると、私を近寄らせない。
 電車で来た里親子は、私たちだけだ。
 玄関から駐車場へ向かう里親子たちの流れについて行ってはいけない。
 「ノコさん。私たちはこっちだよ」
 駅へ続く道に立って手招きすると、ノコは車組を暗い目で見つめ、地団太を踏んだ。

 楽しく遊んだのだから、「疲れたけど楽しかったね」とその時間を振り返りつつ帰路につきたい。
 「さぁ、お家に帰ろう。また来ようね」
 これは大人の感覚なのだろうか。
 ノコは楽しければ楽しいほど、帰りに荒れる。
 淋しさの裏返し、楽しい時間が終わる悲しさに耐えられないのだろうが、それが不機嫌や苛立ちというかたちで出る。しょんぼりとうなだれれば、私も抱き締めて、「淋しいね、また来ようね」となぐさめたくなるのに、蹴られ、睨まれれば引っ込んでしまう。

 バッグを放り投げ、路上にノコはしゃがんだ。
 「疲れた。歩きたくない。バッグ重いし」
 家を出る前に、最後まで自分で持つのだと念を押したバッグには、水筒やハンカチ、ティッシュのほかに厚みのある児童書、漫画、ノート、筆記具、交通機関案内本が入っている。
 こんなところに座っていても家にたどりつかない。
 乳児院を出る少し前、1歳半の男の子が里母の胸のなかで泣いていた。お昼寝の時刻が過ぎ、愚図りたくなったのだろう。
 ノコもおそらくそんなもんなのだ。
 遊んでいるあいだは夢中で気付かなかった疲れが押し寄せ、人がいっきにいなくなった淋しさと楽しい時間の終わりに気持ちが追い付かず、虚しさに襲われているのだろう。
 置いていかないで!
 その叫びが怒りとなる。
 「ぎゅうしようか」
 私が両腕を広げて一歩ノコに近寄っていうと、ノコは私を睨んだまま一歩後ろを下がった。距離を縮めることを許さないようだ。
 ハグではノコの心の穴は埋まらないのだろう。

 駅に着いたとしても、そこから急行電車で30分。さらに家まで自転車だ。
 道のりはまだまだ遠い。
 むーくん(夫)がいれば、一言で済む。
 「楽しかったんだから、楽しく帰ろうな。また連れてきたいと思わせてくれ」
 私が同じ言葉をいっても、ノコはおさまらない。
 おそらく私に対する甘えなのだろうが、疲れると私も余裕がなくなり、ノコの荒れ狂う淋しさを包み込めなくなる。
 私の心や体力のゆとりの有無によって、ノコへの接し方が変わってしまう。
 要は、私次第なのかと思うと、急に暑くなった気温の変化すら憎らしくなってくる。

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