やりたいことをはっきりさせて、あきらめる。やらない。別のことをする。
メリット
「やりたいこと」にモチベーションがたまっていく
「どうすればやりたいことをやるための時間をつくれるか」「そのための体力を残せるか」を考えるようになる
「やりたいことができていない」という被害者モードにならなくて済む
目の前の「やるべきこと」ことにちゃんと力が入る
どういう人におすすめか
時間がなくてやりたいことができなくて悶々としている
時間はあっても気分が乗らなくてできないことがある
それって本当にやりたいことじゃないのかもな……みたいな悩み方してる
そもそもそんなに強く「やりたい」と思うことがない
ここから本編
最近、哲学書にはまっている。カントの『純粋理性批判』とかスピノザの『エチカ』なんかをぼーっと読んだり音読したりしている。
最近どうも自意識が過剰気味だ。わかりやすい本を読んでいるとツッコミを入れたくなってしまい、内容が頭に入ってこない。ああ、だったら茶々を入れられないくらい難しい本を読めばいいのだ、とひらめいた。
積読になっていた哲学書を引っ張りだしてきて適当に読み始めた。書いてある意味は相変わらずほとんどわからない。しかしだからこそ落ち着く。
ああ、難しい本を読んでいるな、というのもドヤれて気分がいい。意味ある時間を過ごしている気がする。自意識が炎症を起こしている今みたいな時期にはちょうどいい。
そんなふうに読書していたら、『エチカ』のなかに今の自分でも意味がわかるような一文があった。
ここから言えることは、スピノザが人間に「自己の本性の法則」なるものを想定しているということだ。人間には、本性に従えているときと、従えていないときがある、とスピノザは考えている。
ここからは僕個人の都合のいい解釈だが、スピノザは
「自己の本性の法則」のみによって理解できることをなせ
それをなせるだけの能力を身につけよ
と言ってるんだと思う。もっと要約すると
『自分の本性が「やれ」っていってることが何なのか理解せよ。そしてそれをできるようになれ』
ってことなんじゃないだろうか。
目の前に助けるべき人がいるのに勇気が出なくて助けられなかったとき、あるいは会社に行かなきゃいけないのにベッドから起きられないとき、僕らは自分のことを「弱い」と感じる。
でもこのふたつの状況は決定的に異なっている。前者は本性に従えない弱さであり、後者はむしろ、本性は行くべきではないと言っている。その声にちゃんと従うことが出来ているのだから、実は弱くも何ともない。
こういう違いをまず理解できるようになるべし、ということをスピノザは言ってるんじゃないだろうか。
それが理解できるようになったら、次はそれを「行動に移す」段階だ。
僕らの本性は、自分が何をなすべきかを知っている。でも、それを「1.理解」し、「2.実行」するためにはスキルや勇気が必要なのだ。そしてそれらを身につけるためには、後悔や失敗を積み重ねていくしかない、といまの僕は考えている。
僕らは自分の選ぶべき道がはっきりしていても、「未熟さ」によってそれを選択できないことがある。あるいはその未熟さを覆い隠すべく、理屈をこねくりまわしたりする。そして「有名大学に入る」「みんなが知ってる企業に勤める」「結婚する」「本を出版する」みたいなわかりやすいクエストを選んでしまう。
目標があると残り時間がわかる。そしてやるべきタスクの量がわかる。すると「今年やるべきこと」「今月、今週、今日やるべきこと」が逆算できる。とてもわかりやすい仕組みだ。
しかし「計算して導き出されたタスク」は本性とズレやすい。本性はそもそもこういった積分的な思考には向いていない。むしろ瞬間瞬間の微分的な判断にかかわるものだ。
目標設定はむしろ、こういった瞬間の葛藤から意識を引き離すための機能をもつ。しかしその効力も、もってせいぜい1年だ。それ以上はもたない。自己の本性を無視し続けるのは難しい。
ちなみに、目標を設定して必要な努力を積み上げていったり、積み上げたものの上に乗っかってさらに多くを積み上げようとする積分的な生き方を「パラノ」という。逆に瞬間瞬間の判断によってやるべきことを決める生き方を「スキゾ」という。※1
僕らの本性の声はスキゾ的だ。スキゾに本性のままに生きること。それこそがスピノザのいう「自由」だと僕は思う。
しかしそれは目標をつくっていまやるべきことを逆算したり、デカルトのように緻密に自分が生きるための哲学体系を構築していくような生き方とは真逆のライフスタイルだ。
そもそも、いつも「いちばんやらなくちゃいけないこと」を正しく選んで実行し続けられれば、優先順位で思い悩む必要もない。信念もいらない。価値観も、人間関係も、大切にしたいものや人やことも、毎瞬間ごとに変化していく。その変化にも柔軟に対応できる。
そして「いつもいちばん大切なことをしている」という実感が積み重なっていけば、たとえ結果が伴わなくても人生を肯定できるだろう。
「自分はそのときそのときで最も大切なことをやろうとしてきた。やれなければ後悔し、次こそはと奮起した。そのために必要な努力をしてきた」
根拠のない自信というのは、このような自信のことを言うのではないだろうか。
そしておそらく、微分的な、スキゾ的な、すなわち自己の本性の法則に従った選択をし続けたほうが、自分の能力をあますところなく最大限に発揮できるだろうから、結果だって出やすいのではないか。※2
昔は単位のためだけに要領よくこなしていた勉強を、いま自由にやっていいとしたら、当時よりずっと夢中で取り組めるだろう。
本性は、いまの自分がいちばん高い集中力でやれるはずのことを教えてくれるが、それを選択できない自分の未熟さや弱さは加味してくれない。だからときに厳しく、残酷だ。
ただただ「目の前の困っている人を助けろ」といってくる。「感情に流されるな、抱きしめるように慈愛の相槌で目の前の相手の話を聞け」といってくる。できない。しかし、僕らはこの葛藤に苦しめば苦しむほどに、自由に近づいていく。
僕らはいつも、まずは自分の本性と対話して「いま、何をすべきか」をはっきりさせておくべきなのだ。たとえそれを選べないとしても。
絵を描きたい。文章を書きたい。そういう本性がはっきりしていても、仕事には出かけなければいけない。子供を育てなければいけない。休日は疲れた心身を回復させなければならない。
しかし本性を無視することと、本性を知った上でいまはあきらめるという決断をすることとは、まったく違う体験として魂に刻まれることになる。
本性に従えなかったとき、僕らをとりまく世界は、今の僕らに必要な努力や工夫や人間関係をちゃんと運んできてくれる。(急に飛躍した気がするが、長くなってきているのでこの辺りの詳細は別の機会に譲る)
「いまはいちばんやりたいことはできない。じゃあ次にやるべきことは何か?」と考えるだけでいい。たいてい、その答えは「会社に行く」「締切間近の仕事を終わらせる」「家事をする」という選択になるだろう。
このプロセスをしっかりとふむことで、僕らはついに自由の感覚を回復させることができるのだ。
自分の本性の声を無視すると、僕らは「やらされている感」に支配されていく。被害者のような気分になっていく。
しっかり本性の声をきき、できないときはできないとあきらめる。そうやって自分の未熟さを自覚していく。それはたしかに心地いいことではない。それでも我々の精神は確実に自由へと近づいていく。
自由であるからこそ、やりたいことができないとき、そこに正しくモチベーションがたまっていく。やりたいことをやるためのアイディアがひらめきやすくなる。
「気分がのらない」のは情熱が足りないわけではない。本当はやりたいことじゃない、というわけでもない。いまはまだその時期じゃない、というだけだ。
あるいはつかれているだけだ。
あるいは自分の本性の声を無視し続けているのかもしれない。
気分がのらないときには「よくわからないけど気分がのらないからいまはできない」とまずは決断すればいい。そして「じゃあ次善の策としてやれることはなんだろうか」と考えてみてほしい。いまできることをやる。
このプロセスから逃げるように動画をみてだらだら過ごしたりしてしまうと、あとから自責の念にかられることになる。
このプロセスを踏むことで「やりたいことをやる時間はあるのにやってない」という健全な罪悪感を、目の前のタスクを進めるエネルギーとして使うことができるようになる。
ちょうど、試験勉強しなくちゃいけないのに部屋の掃除がはかどっちゃうあの現象だ。あれは試験前でやるべきことがはっきりしているからこそ生まれるエネルギーなのだ。
僕らはできないことからは逃げていい。でも自己の本性の法則を見つめることからだけは逃げてはいけない。
僕らは自分の弱さを嘆いていい。でもそれは「自己の本性に従えない」弱さに限定すべきなのだ。
注
※1「浅田彰 スキゾ パラノ」でググってみてほしい 1984年の流行語にもなった。
※2 そもそも「結果」とはなにか、という議論もある。パラノが求める「結果」とスキゾが求める「結果」は違う。ここでいう結果は、スキゾ的な生き方の先にある望ましい結果のことだ。それがどういったものなのかは言語化できない。なぜならそれは人間一人ひとりまったく異なるものだからだし、言語という人間同士が共有する道具でどうこうできるものでもないからだ。いくら精密なカメラで撮影しても現実と撮影した映像では全く異なるものであるように。
以下、メンバーシップ限定で上記の下書きを台本にしたYouTube配信を公開しています。話している内容は微妙に違います。
読みたい本がたくさんあります。