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薬で死なない

薬はふつう健康のために用いるものです。けれど、薬によって死ぬこともあります。オーバードーズや違法ドラッグによる急性中毒症状で死亡する事故も少なくありません。

薬品は摂取する量によって、毒にも薬にもなるのです。役に立つとき薬と呼び、悪影響をもたらすとき毒と呼んでいるに過ぎません。

そして多くの薬には依存性があります。これが厄介なのです。私も色んなものに依存して生きています。なぜ依存してしまうのかというと、どのような薬も、使えば使うほど効かなくなっていくからです。依存症については「退屈でも死なない」の中でも少し書きました。

薬は安全なのか、それとも危険なのか。その疑問に対しては、精神科医の林公一先生のこちらの言葉を引いておきましょう。

薬が安全か危険か。その問いには常に意味がない。薬には効果がある。リスクもある。効果がリスクより大きいと判断されれば、飲むべきである。逆にリスクのほうが大きいと判断されれば、飲むべきでない。薬の安全性・危険性とは、常に相対的なものなのである。

ADHDの薬、それは治療か商売か | Dr林のこころと脳の相談室

薬とは様々な付き合い方があり、それぞれにつきまとう問題があります。今回はその中でも、向精神薬との付き合い方について考えていきたいと思います。


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向精神薬とは精神に作用する薬物全般を指します。治す、というよりも、これらの薬は飲み続けている間だけその人間の性質を少し変質させるのです。

例えば、ADHDの人にはコンサータという薬が処方されることが多いですが、薬を飲んでいる間は感覚過敏、注意散漫などの機能障害が治ったように感じても、薬を飲むのをやめるとまた元通りになってしまいます。

さて、このことについて、一つの問題が浮かび上がります。薬を飲んでいるときのADHDから解放された自分と、薬を飲んでいないときの苦しんでいる自分、どちらが本当の自分なのか、という問いです。

この疑問を、林公一先生の「Dr林のこころと脳の相談室」に相談した方がいます。非常に興味深いやりとりなので、興味がある方は読んでみてください。

コンサータに限らず、向精神薬を飲むと精神の変容を経験します。この相談者さんの場合、コンサータのおかげで最初は「初めて、ゆっくりと本を読むことができるようになり、感動のあまり泣いてしまいました」とその変化を喜んでいました。

しかしやがて、薬を飲んでいる状態と飲んでいない状態があまりにも断絶しているように感じて、「自己が連続している」という常識に疑いを持つようになってしまったのです。

さらに、薬という単なる化学物質によって自分の性格ががらっと変わってしまう経験をしたことから、心が脳の物質的な働きにすぎないということに気づいてしまい、ショックを受けたことが記されています。

この疑問に対して林先生はとても誠実な回答をしています。その中でも、私が一番重要だと感じるのは以下の部分です。

「こころは物質から生まれている(【3868】の質問者の表現を借りれば「所詮は中枢神経の発火に過ぎない」)という結論については、人は考えることを避けているというのが普通です。そして向精神薬によってこころが変容するという事実を実体験することで、この「普通」が破壊されるとすれば、向精神薬は黒船的存在であると言うこともできるでしょう。【3868】の質問者にとってのコンサータがまさにそうであったと言えます。

【3868】コンサータによって自己の連続性を失いつつある | Dr林のこころと脳の相談室

向精神薬は「普通」を破壊する黒船的存在である。これはとても重要な指摘です。それはつまり、多くの人間が生きる上で当たり前に信じている常識が実は間違っていたことが、薬による精神の変容体験によって暴かれてしまうということです。

薬を飲むだけでまったく別の自分になってしまうことができる。その精神の変容を経験することは、一貫した自己などというものはただの幻想に過ぎないと知ることです。

また、この相談者さんは、コンサータを飲んだときの自分こそが「真の私」だと思い込もうとした、と書いています。しかし「真の私」なるものがあると考えること自体が間違いですし、精神を肉体よりも優位なものだと捉えるのも誤りです。

現代の人々は身体を軽視しすぎています。身体のないところに精神はありません。これらのことを理解すると、精神の変容を観察することができるようになるはずです。

薬を飲んだ時に、私の中で変わりつつあるものはなんなのか。意識が変化しているように感じても、実際には体のどこかの働きが変化しているだけなのです。それを感じること。常に自分の体の観察者になればよいのです。そうすれば、真の私はどれか、などと思い悩む必要はありません。

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まずそれは、本当に治さなければならないのか、という視点を忘れないことも大切です。

多くの人が、薬を飲んで社会に適応させられています。社会が用意したイスの形が体に合わないからといって自分の体の方を変形させられているようなものです。

病名をつけられたからといって、自分はなにか劣っているとか、悪いところがあるから治さなければならないんだ、などと思いこむ必要はまったくないのです。

その特徴はあなたの個性であって、本来その個性はそのままで尊重されるべきなのです。社会があなたのために居心地のいい場所を用意できないから、あなたに治さなきゃだめだと思い込ませようとする。

社会が想定した「健常」のモデルから外れたら病気であり、治さなければならないのだという圧力自体が、社会からの不当な要求であることを忘れてはいけません。

その上で、より自分が生きやすい選択をするために、薬を使うかどうか決めるのがよいと思います。ただ、考える力すら奪われたまま、薬を飲んでなんとか自分を奮い立たせながら働く機械になっては意味がありません。それが今回、私の一番言いたいことでした。

私たちは、なぜか自分で自分を「標準」に近づけなければならないという強迫観念に駆られています。本来、あなたはあなたのままで居場所を主張する権利があるのに、そういう当たり前のことがずっと昔から無視されすぎていてわからなくなってしまっているんです。

薬を使うこと自体は否定しません。私もかなり薬に頼っています。でも、薬は使いすぎると毒になるので、本当に死につながっているのです。だから、薬で死なないための話は今後もし続けていかなければならないと思っています。

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