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日記 出会った人の数だけの”私”

 私は自分の感情を自覚するのが苦手だ。

 だから突然、ストレスや疲れが心身に現れる。で、やっと、なんかあったけ?って考えだす。

 振り返ってみると、うわそりゃ疲れもするわと思う。

 人にエピソードを話してやっと、怒ったり、悲しんだりしても良かったのかもと思う。

 渦中にいると分からない、みんなそんなものだと思うけど。私は人よりストレスは心身にきやすいし、少し摩耗してしまっているところがあると思う。

 そして、私はとても受け身だと思う。

 明確に場の状態が悪くなる、相手に害があるとか、望まれていないのならば、断る。

 しかし、「自分は気分は乗らないし、したいことではない。が、すごく嫌というほどではない。」そのぐらいの”嫌”なら、その場が丸いなら、ある程度気を許した人や恩がある人なら、応えてあげた方がいいのかなと思ってしまう。

 別に私は困らないから。
自分の「嫌」や「したくない」と、場や相手の「したい」「望み」を比べたら、”自分の気持ち”の方が弱いように感じてしまう。

 さすがに、ほんっとに嫌だ、何が何でも無理と感じたら、拒絶する。でも、そのレベルの拒絶感じゃないと、場や相手の望みには勝てない気がする。

 癖だと思う。

 相手が、家族や親族が望んでいる回答は何だろうかと探って、自分の意見や気持ちではなく、”そぐうもの”が”正解”だと思っていた。

 不機嫌になってたり、非難されたり、下手したら人格否定されるのだから、”強いられた”と同義だと思う。

 けれど、幼い私がそういう”空気”が読めてしまう子だったのもあると思う。

 今でも役に立っている。でも苦しさも生んでいると思う。

 主語に、”私”がなかなか来ない。議題の意見ならいえる。

 あなたはどう感じました?悲しかったですか?嬉しかったですか?怖かったですか?怒りを感じましたか?それとも楽しかったですか?と聞かれると、上手く答えらない。

 私は大丈夫、どうとも思ってないですよとよく言ってしまう気がする。

 本当に大丈夫なのか、大丈夫じゃないのかは自分でもよくわからない。


だから、大事な友人、感謝している人、私の数少ない好きな人は、皆、”私”はどうだったのかと聞いてくれたり、”私”のことを私が大丈夫と言っても気を使ってくれる人だ。

自分が上手く寄り添えない自分に寄り添ってくれる人は、すごくありがたい。

 申し訳ないけれど、あちらの望みを強く感じたり、私が叶えるのは苦しい望みを言う人といるのは本当につらくなってしまう。そんなのは、家族でもう十分だと思ってしまう。

 私にこれ以上望まないでと。

だから最近、疲れて、調子を崩したのは、色んな変化があって、色んな人と会って、説明会や就活はどんな人物がこの企業等に望まれているのかというものだし、もう、色んな人の私に対するイメージを感じたり、望まれる人物像が提示されているように感じたりして、何が何だかわからなくなった。

 すべてに、こたえきるのは無理だ。出会った人の数だけ”私”がいるんだと思う。

 だから、私でいいんだと思う。

 私は、どう思ったのかな?と、逐一聞いてみることが大切なんだと思う。

 私が私を大切にできていたらきっと、幸せだし、私のことを本当に望んでくれている人はそれを望んでいると思う。そういう人とだけいればいいと思う。

 まだまだ分からないけれど、でもちょっとずつそれが出来てきているから。

 それに今までのことも、役に立つと思う。自分の気持ちを相手が受け入れやすいように伝えるや、その場は収めて、聞いてくれる人に話をするとか。

何も無駄はない。何事も得手不得手だ。


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