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YouTube言語行為論


わたしはすべての著作権をフリーにする男、著作フリオです。
というのは冗談で、今日は「引用」について話したいと思います。

ちなみに私の記事はすべて著作権フリーです。
出典明示なしでも、パクリも全然オッケー。

もちろん私が文化庁の定める引用から逸脱したことはありませんよ。


この記事における引用は、文化庁の定める引用の範囲内です。

You Tubeでこういった文章をよく見かけます。
それ自体は何も悪いことではないです。かく言う私もプロフ欄に書いていますからね。

けど最近、引用の範囲内とのたまっていながらも

明らかに引用の範囲を超えているだろ…!

という創作物を見かけるようになった気がします。
特に切り抜き動画やアニメの紹介チャンネルの一部で、見かけます。

なんて悪質な引用なんだと
私は思ってしまうのですが…


そこで、なぜこのようなことが生じているのか考えてみました。
すると、言語行為論という概念で説明できるのではないか、という結論に至りました。


さて、言語行為論とは何でしょうか。
これは言語哲学者のJ.オースティンが提唱したものです。

J.オースティンといえば、『高慢と偏見』の著者を思い浮かべるかとおもいますが、別人です。

言語行為論では、言語を2つの型に分けます。

事実確認的:コンスタティブ。事実を指し示すためだけの文章。

行為遂行的:パフォーマティブ。事実の是非にかかわらず、その文章によってなにかの行為を促す。


具体例を挙げてみましょう。

1「ここに花がある」
2「岸田文雄は日本の総理大臣だ」

上記2つの文章は、事実確認的といえるでしょう。通常、「ここに花がある」という発言は、目の前の花を指さしているし、岸田文雄は現在(2023.11.30)日本の総理大臣ですよね。

では次の文章はどうでしょうか。

3「こんなに寒いのに、ヒーター点けていないんだね」
4「明日、ハチ公前広場に集合だよ」

3の文章は場合によっては事実を指し示しているだけかもしれませんね。でも多くの場合、言外に「ヒーターを点けてほしい」と相手に行為を促しているわけです。「母さん、お茶」なんて文章と似ていますね。母さん=お茶なのではなく、お茶をいれろと要求しているわけです。
4の文章はもっとわかりやすいですね。これは不確定な未来において明日のことを約束しているわけですから、行為遂行的です。ハチ公前に集合するのは事実ではありません。なぜなら震災でその約束は果たされなくなるかもしれませんし、相手をいじめる目的でウソをついている可能性もあるからです。


さて、あらためて冒頭の文章を振り返って見ましょう。

この記事における引用は、文化庁の定める引用の範囲内です。


こう言っている(書いている)場合、発話者の意図は2つに分かれていると考えられるでしょう。つまり、事実確認的か行為遂行的か。

例えば、本当にその記事においてなされている引用が、文化庁の定める基準に合致している場合。これは事実確認的な文章で、何も問題はありません。学術論文とかの引用を想像するとよいでしょう。

一方で、本当は引用の範疇を超えているのに、引用の範囲内だと主張したい場合。つまり発話者は自分のしていることが悪質な引用だとわかっている。または、どうにもグレーな感じで基準に合致しているか自信がない。
そういったときに「引用の範囲内だ」と主張することで期待できるのは、

1.自分が正当だと欺瞞できる
2.引用を審査する側(視聴者、読み手)に正当性を主張したい。
3.視聴者・読み手をはぐらかそうとしている

こういった狙いが考えられるでしょう。
ぶっちゃければ、「引用の範囲内だ」と主張することで自分も相手も騙してしまいたいんですね。あるいは監視の目を弱めようとしている。


それがネット上で乱用される「引用の範囲内」の正体といえるでしょう。


ちなみにこの言語行為論は、文学批評でもよく使われています。
教養人ぶって御高説垂れたい人(私みたいなセコい人間)は学んで損はないでしょう笑

気になる方は講談社から出ている『言語と行為』を読むことをおすすめします。個人的には、わかりやすい文章と解説に定評の光文社古典新訳で出版されないかと密かに望んでいるのですがね。


ちなみに文化庁の定める引用の範囲については、こちらのリンクをどうぞ。
最近は引用がより厳しく規制されてきましたからね、注意が必要です。
こういう規制は自民党などの保守層が生きづらくしている、なんて言ったら毛嫌いされますからね、言わないでおきましょう。というより国家=父=掟という構造は哲学者や人文学の見地で何度も主張されていますから、政党派閥うんぬんというより、国家の宿命なんですねー。


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