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潮騒の夏

 高台にあるその部屋には、無音の時間が存在しなかった。
 いつでもはっきりと聞こえるのは、窓の下に一面に広がる海の、波の音。
 それは「潮騒」というのだと、夏希(なつき)は教えてくれた。潮の流れが、騒ぐと書いて潮騒。
 耳を澄ませてみれば、なるほどそれは海の水の中に無数に溶け込んでいる潮の粒たちが、賑やかにおしゃべりをして騒いでいる様子にも聞こえてくるのだった。
 拓海(たくみ)は、通っている中学校の夏期休暇に合わせて、夏の間だけ、海沿いの高台にあるこの部屋で過ごすことになっていた。「ここは海のすぐそばだから、好きなだけ遊べるだろう?」父は拓海にそういったが、それが体の良い厄介払いであることは拓海にもわかっていた。
 拓海の家には、母親がいない。家の中の料理や洗濯は、父が雇った家政婦がすべてこなしていたし、拓海はおとなしい子供だったから、学校のあるときであれば、父に負担をかけることはほとんどなかった。
 夏の間は、家政婦も実家に里帰りをしてしまう。拓海は学校がないから、一日中家にいることになる。
 本当は拓海は、簡単な料理なら自分で作ることができるし、ひと通りの家事もできる。仕事で草臥れて帰ってきた父に、遊んでくれとせがむようなことだって決してしたりはしない。それでも父は、まだ中学にあがったばかりの子供を夏の間中一人家においておくことに、罪悪感のようなものを感じたらしい。
 ずいぶんと前に偶然購入したまま放ったらかしにしていたというこの部屋を、夏期休暇の間の拓海の居場所に定め、「夏の間、好きなだけここで遊ぶといい」と言いおいて、父は、拓海にはその価値を理解することが難しいが、父にとっては何よりも大切な、仕事へと舞い戻ったのだった。
 そこは、海しかない町だった。
 最寄りの鉄道駅までは、車で三十分ほどもかかる。車も運転免許も持たない拓海にとってそれは、無限にも等しい距離だった。
 拓海はまるで、絶海の孤島に一人で取り残されたような、そんな気分さえ、感じていたのだった。
 はじめの三日間、階下の食堂に食事をしに行く時を除いて、拓海は部屋から一歩も出なかった。
 都会で生まれ育ち、小学校の頃に遠足でわずかに磯遊びをした以外には、海などに関わったことのなかった拓海には、海での遊び方がわからなかったのだ。
 部屋にはエアコンはなく、おそらくは拓海が生まれた頃からあるのではないかと思えるほど古びた、錆だらけの扇風機が一台あるだけだったが、窓にかけられたすだれと、時折軽やかに金属的な音を立てる風鈴の音色、それから建物の管理人が毎日三回欠かさずに行っている打ち水のせいか、都会よりもずっと涼しく感じた。都会で必死で節電がどうのと騒いでいるのが、遠い世界のように思われた。
 ここにはテレビゲームどころかテレビさえもなく、暇に飽かして手をつけはじめた夏期休暇の課題は、波の音を聞きながら進めていると妙にはかどった。そのせいか、それほど根を詰めたつもりもないのに、課題の練習帳をはじめの三日で全て終わらせてしまい、拓海はたちまち暇を持て余すようになった。
 四日目の朝、拓海は目を覚まして途方にくれた。今日やらなくてはいけないことが、もう何もないのだ。
 ふと窓の外を除けば、今日も見事に晴れ上がっており、まだ午前中だというのにじりじりと音を立てそうな炎天に、巨人のような白い入道雲が、眩しく光っていた。
 気が進まないながら――拓海は、この部屋に来るときに父から渡された、古ぼけた麦わら帽子と麻の鞄を持って、部屋を出た。
「――海にでも行こうか」
 聞く者などいないと知りながら、拓海は小さくつぶやいた。ずっと誰とも話さずにいると、言葉を忘れてしまいそうだった。
 わざわざ口に出さずとも、海以外に行くところなどあるはずもなかった。このあたりにはそもそも、海の他にはわずかに数件の家と小さな畑があるばかりだったし、知り合いなど誰一人もいない拓海に、尋ねる家などないのだから。
 拓海のいる部屋から海までは、わずかに数分の距離だ。建物を出て、道路脇に設けられた階段を降りれば目の前には一面の白い砂浜が広がっている。拓海がかつて遠足で行った都会の海とは全く違う、透き通った美しい水と砂。だが砂浜で遊ぶ人の姿はなく、いつからあるものか、色あせたビーチパラソルがひとつ、ぽつんと立っているばかりだった。
 たった数分歩いただけで、拓海の全身からは汗が吹き出していた。持ってきたハンカチで額から滴る汗を拭って、息を弾ませながらようやく目を上げると、いつの間にか目の前に少女の後ろ姿があった。
「わっ」
 暑さにぼうっとしていたせいだろうか。今にも手が届きそうなすぐ目の前に来るまでその少女の存在に気がつかなかったものだから、拓海は思わず声を上げてしまった。その声が聞こえたのか、少女はゆっくりと拓海の方を振り返った。
 美しい少女だった。今時珍しい、背中の半ばほどまである長い黒髪を、括りもせず伸びるままにしている。黒目がちな大きな瞳のその少女は、拓海と同い年くらいに見えたが、しかし穏やかに波打つ海を映したようなまなざしは、ひどく大人びているようにも見えた。
 少女は、水着姿だった。今日の空を映したような青色のワンピースタイプの水着。むき出しの肌の色は、砂の色に負けないほどに白く、焼けつく海には不釣合いだった。
「ご、ごめんなさい……」
 拓海は少女から目を逸らして、何に対して、というわけでもなく、思わず謝罪の言葉を口にする。すぐに謝ってしまうのは、拓海の悪い癖だった。
 少女はそんな拓海の様子を気にした様子もなく、無邪気な笑みを浮かべて、拓海にこういった。
「その麦わら帽子、似合ってるよ」
 とつぜんそんなことをいわれて目を白黒させている拓海の手をとって、少女は走りだした。
「あたしは夏希。ねぇ、一緒に遊ぼうよ」

 翌日から、拓海は毎日夏希と海で一緒に遊ぶようになった。
 夏希がどこに住んでいるのか、いったい何歳なのか、そういったことは一切聞かなかった。どうしてだか、そういうことを聞いたら夏希はどこかに消えてしまうような、そんなふうに拓海には感じられていたのだ。
 それでも、拓海が砂浜まで降りてくると、夏希は決まって先に来ていて、拓海はあわてて砂を蹴りながら、「ごめん、遅くなって」と声をかけながらその後ろ姿に向かって走り、くるりと振り向いた夏希は、無邪気な笑みを拓海に向けるのだった。
 夏希は、泳ぐのがとてもうまかった。
 学校のプールで、クロールだったらどうにかこうにか二十五メートルは泳げる、といった程度で、水の中で目を開けるのが苦手な拓海に対して、夏希はイルカのように水を切り、美しく泳ぐ姿を見せてくれた。その姿はまるでお伽話に出てくる人魚姫のように見えて、拓海はただぼうっとそれを眺めていることしか出来なかった。
「ねぇ、そういえば、」
 あるとき、砂浜に半ば寝転がり、拓海が管理人からもらってきたカキ氷を夏希とわけあって食べながら、拓海は話しはじめた。
 拓海の人見知りはずいぶんと激しく、学校に行っても三言以上言葉を発する日はいくらもない、というような有様であったけれども、どうしてだか夏希とだけはつっかえることもなく、話をすることができた。こうして拓海の方から新しい話題をふるようなことは、拓海の日常の中ではごくごく珍しいことであった。
「最近、家の前とかに、ナスとかキュウリとかに、割り箸をつきさしたの、飾ってあるでしょ? お盆だからさ」
 ごく軽い口調で、拓海がそう話す。純粋に他愛のない話をするなんて、拓海には今までほとんどなかったことで、自分がそうしていることに――そうしてもいいと思えるほどに、信頼できる友人を見つけられたことに、拓海はどこか驚きを覚えていた。だから、その話をしているときに、夏希が少し――ほんの少しだけ、その顔を曇らせたことには全く気づかなかった。
「あれでさ、今日、トマトのやつを見つけちゃって。なんか間違ったのかな。それが、可笑しくって――」
「精霊馬(しょうりょううま)」
「え?」
 唐突な言葉で話をさえぎられ、拓海の表情が止まる。
「精霊馬、っていうんだよ。ナスと、キュウリのやつ」
「あ、ああ、そうなんだ」
 精霊馬――お盆の時に、亡くなった人の魂が、あちらとこちらを行き来するための乗り物として用意するもの。行きには、すぐに戻って来られるように、足の速い馬をかたどったキュウリのものを、帰りには、なるべくゆっくり帰っていくように、足が遅い牛をかたどった、ナスのものを使ってもらうように二つをセットで置いておく。
 これは、このあとに拓海が部屋に戻ったあと、辞書を引いて調べたこと。できるだけ長く、亡くなった人と一緒にいられるように、って、そう考えた昔の人の思いを知って、拓海は愛しいような切ないような、不思議な気持ちを抱いた。
「――あんまりさ、ばかにしちゃダメだよ。大事な、ものなんだからさ」
 その時には、夏希のその言葉が何を意味しているのかはさっぱりわからなかったけれど、夏希の表情の真剣さに、拓海は、何も言えなくなったのだった。

 拓海が夜に部屋から出たのは、その日がはじめてだった。
 夜とはいっても、まだ陽が落ちたばかりのそれほど遅くはない時間帯であったが、田舎の夜は早い。街灯もろくにないこの町では、陽が落ちるとすぐに暗闇に閉ざされてしまう。肝試しをするのでもない限り、好き好んで夜に出歩くものはいない。
 拓海だって、陽が落ちるころにはいつも夏希とは別れていたし、暗くなってから外に出る理由などひとつもなかったから、このあたりでは陽が落ちると、こんなにも星がたくさん見える、なんてことはその日まで少しも知らずにいた。
 その夜、拓海が外出をしたのは、その日が町で開催する盆踊りの日だったからだ。折しも満月で、普段に比べればずいぶんと明るかった。とはいえ、都会育ちの拓海にとっては、ほとんど暗闇のように思えていたけれど。
 懐中電灯を片手に、おそるおそる夜道を進む彼の傍らには、夏希がいる。いつものような水着姿ではもちろんない。朝顔の柄の紺色の浴衣に身を包んだ夏希は、水着のときよりもずっと儚そうに見えた。
 都会のそれとは比べるべくもないが、盆踊りの会場である神社はそれなりに盛況だった。夕涼みがてら出てきた地元の人達も多いのだろう、幾つかの屋台が並び、ビールの缶や、綿菓子を手にした人々が行き交っていた。
 境内には、太鼓の音が響いている。素朴だが、胸の奥に響く音色。
「見て、送り火を焚いてる」
 夏希が、拓海の耳に口を寄せてささやいた。夏希が指さす方向に視線を向けると、小高い丘の上にあかあかと燃える小さな野火があって、暗闇を明るく照らしていた。
「……」
 拓海は口を開こうとして、やめた。
 送り火の橙色の灯りに照らされた夏希の体が透き通って見えたのだけれど、それを口に出して指摘するのは、はばかられるような気がしたのだ。言葉にしてしまうことでこの瞬間を壊してしまうのが嫌だ、と、拓海は思った。
 だから、口を開くかわりに手を伸ばして、拓海は夏希の白い手をつかんだ。夏希の手は夏の夜の空気と同じ温度で、拓海に伝わるぬくもりは、ひどく曖昧だった。それでも必死で右手の感触に意識を傾けていると、夏希は小さく微笑んで、「ありがと」と、拓海の耳にささやいた。「お父さんを、大事にしてあげてね」
 不意に、あたりが真っ白になった。それから、何かが破裂したような音が耳を貫いた。
「花火だ」
 一瞬にして塗りつぶされた視界の中で誰かがそういって、拓海もそう思った。でも、それは花火とは少し違うようにも感じた。
 目が慣れて辺りが見えるようになるよりも先に、頬に冷たい何かがあたるのを、拓海は感じた。それは、雨の雫だった。瞬く間に雨は激しさを増して、夏の夜の空気が雨に塗り込められた。
 目を開けていられなくなって、拓海はぎゅっと目をつむった。そうしたまま雨を感じていると、海の中にいるような気がした。閉じたまぶたのうらに、人魚姫のように泳ぐ、夏希のシルエットが映る。無邪気に拓海に笑いかけた夏希が、不意に、くるりと背を向けた。その拍子に拓海は、きつく握りしめていた手のひらを、開いてしまう。何かがするりとこぼれ落ちた。
 どうにか目を開いてみると、拓海は一人で立ち尽くしていた。丘の上の送り火は雨に消されていて、白っぽい煙だけが一筋、空に向かってたなびいていた。
「さようなら」
 聞く者などいないと知りながら、拓海は小さくつぶやいた。

 夏期休暇はおわり、拓海が帰る日になった。
 拓海はあの後も毎日海へ出かけ、一人で泳いだ。泳ぎはずいぶんとうまくなった。
 父は、すっかり日焼けした拓海を見て、驚いたようだった。
「一人で、海に行ってたのか?」
 父の問いに、拓海は少しだけ考えてから、小さくうなずいた。
「そうか」
 そういった父が、不意に拓海の頭から麦わら帽子を取って、自分の頭に載せた。
 あの部屋に来る前に、父が拓海にくれたその帽子の内側に、ひとつの名前がぬいとられていることに、拓海はもう気づいていた。
 拓海の頭にぴったりなその帽子はもちろん父には小さすぎた。スーツ姿で麦わら帽子を頭に載せた父の姿が可笑しくて、拓海は声を上げて笑った。父も笑った。
 父の無骨な指が、帽子の内側の文字を――「Natsuki」と綴られたそれをいとおしそうになぞるのが、拓海には見えた。
「来年も、来るか」
「うん」
「来年は、一緒に泳ごう」
「うん」
 拓海の返事に満足したように微笑んで、車の運転席に乗り込んだ父の横顔を見ながら、拓海は、帰り道では父の子供の頃の話を聞いてみよう、と思っていた。

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