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彗星祭り

 夏の日の、金曜日の夜。午後六時といってもまだ闇夜にはならず、空は絵具を溶かしたような鮮やかな紺色だ。
 いささか空調の利きすぎた上り電車。帰宅ラッシュとは逆方向だが、鼠色のビジネスマンとは別の客で、車内はごった返していた。
 狭い室内に、とりどりの和風な色彩が並ぶ。色の正体は、浴衣の生地だ。競うように着飾った若い女の子(一部の男の子も)が、思い思いの浴衣を身にまとい、慣れない下駄や足袋に歩きにくそうにしながら吊革を掴んでいる。
 明るい色彩の中に紛れ込んだ少数の鼠色たちは、(ああ、そういえば今日は夏祭りだったな……)なんてことを思いながら、若者たちの浴衣姿に目を涼ませている。
「本日は彗星祭りのため、混雑が予想されます~。前もって帰りの切符をお買い求めください~」
 駅に着くたびにそんなアナウンスが、車内にも流れ込んでくる。
「うわ、昴が赤い浴衣なんて、なんか意外だなぁ」
 向かいに立つ恋人らしい女の子に向かってそんな風に言ったのは、自分も地味な紺色の浴衣に下駄姿の男の子だ。おそらくは高校生くらいだろう。恥ずかしそうに指先だけ繋いだ手が初々しい。「意外だ」などというその言葉も、素直に「かわいい」と言えない照れ隠しだろう。今にも笑い出してしまいそうなほどでれっとした顔では、その本心はバレバレだ。
「なによ北斗。あたしが赤い浴衣なんておかしいって言うの?」
 昴と呼ばれた女の子もそんなふうに返しはするが、着なれない浴衣と車内に満ちた祭りの予感に、体が浮足立つのを抑えられない様子だ。
「まさか。その……よく似合ってる」
「えへへ、ありがと」
 どこにでもいる、幸せなカップルだ。もちろん、どこにでもいるからといって取るに足らないわけじゃない。本人たちにしてみれば、初めてといってもいい遠出の、しかも普段とは全く違う雰囲気の浴衣を着てのデートだ。そりゃテンションも上がるってものだろう。
「あ、次の駅で乗り換えだ。乗換口は一つしかないから間違えないようにしないと」
 事前に雑誌でばっちりと確認してきたのだろう、北斗が言う。ちょっと上ずった声が、きちんと女の子をエスコートしなくては、と力んでるためだと思うと微笑ましい。
「なんか、今回の彗星祭りって何百年に一回とかしかないんでしょ? ちょーすごくない?」
「そうそう。一八〇年に一回なんだって。そんなの見られる俺たちってめちゃくちゃラッキーだよな。……あ、昴、乗り換えだから行こう」
 そう言って北斗が、手を引くために昴の右手を握りなおす。一瞬だけ二人の目が合って、北斗は手を引いたまま歩きだす。それぞれの手のぬくもりが、お互いの手に通い合う。それだけで二人とも、唇の端がにやけるのを抑えられない。
「乗り換えは……これだこれ。天空線」
 北斗が目当ての電車を見つける。二人が乗り換えの改札を抜けた時、ちょうど電車が発車しようとしているところだった。
「あ、いそがなきゃ。北斗、乗っちゃおう」
 昴がそう言って、浴衣のすそを気にしながら早足になる。北斗もうなずいて、ぎこちないながらも昴をエスコートしてやり、何とかぎりぎりで電車に滑り込む。
「駆け込み乗車は危険ですので、おやめください~」
 抗議するように流れる車掌のアナウンスも、二人には全く聞こえていはいない。乗り込んだ電車は、滑るように走り出す。車内にはもう鼠色は全くない。赤、青、黄。色とりどりの浴衣の群れ。
「お祭りって、どんなのがあるんだっけ? 屋台とか? 盆踊りとか?」
「うーん、そこまではわかんないや。行ってみたらわかると思うよ」
 相変わらず二人は、お互いだけを見つめ、はにかみながら話し続けている。だから、外の風景にも気付かない。
 電車はいつの間にか、光の中を進んでいた。すっかり暗くなった夜闇の中に輝く、無数の光。
「なんていう駅で降りるの?」
「えっと、それがなんか変な名前なんだ。ケンタッキーじゃなくて……あ、あったケンタウルだ」
 巾着から丸めたガイドブックを取り出して、北斗が答える。
「なにそれ。外国みたい」
 昴が笑う。そこで初めて、彼女は窓の外に目をやった。
「あれ、ここどこだろう? 見たことない感じ」
 窓の外には光が散っている。ネオンや、ビルの灯りではない。
「なんだろうあの光。なんか、星みたいだな」
 北斗が首をかしげる。
「次は、ケンタウル~、ケンタウル~、終点です~」
 その時ちょうどアナウンスが聞こえ、電車がゆっくりと停まった。
 すっと音も立てずに扉が開き、色彩たちが競うように外に流れだしていく。
「俺たちも降りようぜ」
「うん」
 北斗が昴の手を引き、電車から降りた。
 そこは、空の上だった。足元には何もない。眼下には遥か、街の灯が見える。空の上に、彼らは降り立った。
 闇の中で巨大な青白い光が、優美な尾を引いて、まるで太陽のようにこちらに光を投げかけていた。
「あれが、彗星」
 呟いたのがどちらだったのかはわからない。
 ふと見ると、先に降りた色彩たちが、次から次へと光の球に変わっていくのが見えた。青い浴衣の男の子は青い光に。黄色い浴衣の女の子は黄色の光に。そして、光の球に変わった彼らは彗星を見上げながら、嬉しそうに地上へと落下していく。
 一八〇年に一度の彗星と、無数の流星雨の、近年稀にみる天体ショー。
 そんな謳い文句が、ガイドブックに載っていたことを北斗はうっすらと思いだす。
「あたしたちも行こうか」
 そう言った昴の方に目をやると、彼女はすでに真っ赤な光の球になっている。
「ああ、そうだな」
 北斗もうなずいて、ちらりと地上を見やった。光になった浴衣の若者たちが降り注いでいる地上は、さぞや美しいだろう。昴と一緒に降り注ぐその光景を思って、北斗は幸せな気分になった。

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