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音楽小説「アイネクライネ」

 雨が音もなく降る夜は、誰だってセンチメンタルな気分になる。私にとってもそれは例外じゃない。いつだって暗く沈みこんでいる私に、センチメンタルなんていう感情は似つかわしくないかもしれないけれど。
 私は部屋のガラス窓を小さく開けて、暗闇に閉ざされた外の世界をのぞき見る。古ぼけた街灯が照らす小さな空間に、雨粒が線を描いていた。目をこらさないと見えない音のない雨は、確かに、この町をじっとりと包んでいた。
 だから私は、家を出た。ママに気づかれないように足音を忍ばせて階段を降り、そのまま玄関へ向かう。初夏の、少し肌寒い雨の夜。夏を待ちわびる人々をあざ笑うような、冷たく陰気な雨。それは私にお似合いのものに思えた。
「少し頭を冷やしたいの」
 そっと玄関の扉を閉めて、家から抜け出した私は、あえて声を出してみる。出し慣れない声はかすれていて、きっと誰かが隣にいたって聞き取れやしない。
 ――聞かせる誰かなんて、いない。
 一瞬だけ浮かびかけた像を頭から追いやって、私は一歩を踏み出した。
 重さのない水が、私の髪に、肩に、背中に、足に、まとわりつく。ふれる瞬間まで重みをもたなかったはずなのに、まるで私の体と化学反応を起こしたみたいに、じっとりとした重みが、私を地面へと引き寄せる。力の入らない私の体が、雨の暴力に倒されて、地面に押しつけられるのを妄想する。
 だけど残念ながら私の体は、雨ごときに動かされるほど儚くもか弱くもない。私のふてぶてしい体は、梅雨前の静かな雨なんてものともせずに、水しぶきを散らしながら進んでいく。雨は、期待したほどに冷たくもなくて、生ぬるい不快感だけが体を伝っていく。シャツが濡れて、体にまとわりつくのが不快だ。街灯の目障りな光に照らされて、拘束具のような下着の色が、透けたシャツの下から醜く浮かび上がっているのだろう。
 こんなに生きるつもりではなかった。
 少しでも早く消えてなくなろうと、それだけを考えて過ごしてきたはずだった。なのに私は臆病で、意気地なしで、何もできないまま、体ばかりが大きくなってしまった。私はいつしか、消えてなくなるタイミングを失ってしまっていたんだ。
(でもそれはきっと間違いだったんだ)
 私は、体を濡らす雨を疎ましく思いながら思う。このままでは風邪を引いてしまう――そんなことをちらりとでも考えてしまったことに吐き気がする。前はこんなことはなかった。私の体なんて、どうなろうとかまわなかった。
 雨が疎ましいのは――濡れることを厭うのは、守りたいものがあるから。
(どうしてこんなふうになってしまったのだろう)
 私は自問する。けれど、答えはもうわかっていた。
 あの人に会ったからだ。
 あの人はこんな私のことを見てくれた。私の聞き取りにくい言葉に、耳をかたむけてくれた。
 私の名前を、呼んでくれたんだ。
 あの人に会えて、私はうれしくてうれしくて――悲しかった。
 あの人といると、私は執着してしまう。失いたくない、離れたくない、って思ってしまう。
 幸せな時間は、こわい。いつか必ず別れは来るのに、ありえない永遠を願ってしまう。

 あの人と出会う前、私は身軽だった。いつ消えたってかまわない。誰にも縛られない、透明な体。
 あの人の存在は、私にとって鎖だ。私の体は重くなり、何もかもがこわくなった。
 眠りにつこうとしたときに、あの人に何か悪いことが起こるんじゃないかと想像して、恐ろしくなって叫んで飛び起きたこともある。私が何かあの人の前でしでかして、あの人に見放されてしまうのではないかと思って動けなくなったこともある。
 何もないときはこわいことなんてなかったのに、失うこわさが、私の元から離れてくれなくなった。

 雨は相変わらず生ぬるく、私の頭を冷やしてくれそうになかった。
 耳元で繰り返される、あの人が私の名前を呼ぶ声。温かいものが私の体に満ちてきて、体が熱を帯びる。まとわりつく雨水が蒸気となって、天に昇っていった。どうやらあの人は、こんな夜でさえ、私をひとりにはしてくれないらしい。
 風邪を引かないうちに、早く家に帰ろう――反射的にそんなふうに思いかけた自分に呆れながら、私は家の方向に向き直った。
 ――次会ったときには。
 あの人の名前を呼んでみよう。
 そう思って顔を上げると、いつの間にか雨は止んでいて、雲間から顔を出した青白い星が、ひときわ輝いてみえた。

――inspired by 米津玄師「アイネクライネ」

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