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老けた高校生の民主主義考⑤

第五章 民主主義再生計画


 私は民主主義には 4 つの成立条件があるとした。この 4 つをそれぞれ成り立たせるための具体策を考えていきたい。第一に国民の政治参加を促進すること。第二に自由な意見表明の機会を担保すること。第三に対立する意見が相互理解を深めることができる環境を作る事。第四に憲法による基本的権利の保障の徹底である。第二と第三の条件については、性質の違いから 2 つに分けて考えたが、現実の政治の場面においてはどちらも議会での議論についての検討が中心となるためまとめて考えたい。もちろん、第二の条件については、市民の言論の自由の確保という重要な課題も存在するが、それに関しては、第四のテーマに内包される。従って、以下に述べていく民主主義再生計画の大きな柱は、「政治参加の促進」「自由で、かつ徹底した議論をする議会環境の醸成(具体的には政党政治の見直し)」「憲法による権力統制」の 3 つという事になる。

1.国民の政治参加の促進


 そもそも、国民が政治に参加して初めて民主主義は成立するのだから、3 つの柱の中で最も重要なのが国民の政治参加の促進である。特に日本においては、国民が権利を保障された市民「である」ことに安住して、その権利を行使しないという重大な事態がある。私はこの権利の上に眠った市民を目覚めさせるため、選挙に限らない国民の政治参加の機会を確保することが重要であると考える。選挙において投票をすることが重要であることは依然変わらない。しかし、投票をすることが、自分の意見が政治の場に反映されたという実感を国民の中に呼び起こしているかは、甚だ疑わしい。NHKの「日本人の意識調査」によると、選挙を通しての国民の行動が政治に影響を与えていると考えている人は49%にとどまることが分かっている。このような状態では、国民が市民「である」ことから抜け出して、市民としての権利を行使「する」モチベーションが生まれないのではないか。そのため、選挙以外の手法で国民を目覚めさせる方法を考える必要がある。

 いくつか実例を挙げて考えてみよう。「くじ引き民主主義」と呼ばれる取り組みがある。欧州では「くじ引き」で選ばれた様々な立場の市民が、専門家と一緒に熟議して政府に提案をするという試みが行われている。フランスのマクロン大統領は、このような組織によって出された、気候変動に関する 149 の提案の大半を受け入れることを表明した。国民の中から無作為に「くじ引き」で選んだ人々に熟議を求めるという事は、半強制的に「である」状態から「する」状態へと引きずりだすことができ、有効な手段となりえるかもしれない。どこか極端な意見に思われるかもしれないが、日本においても似たような制度が既に存在する。裁判員制度だ。重大な事件に関し、無作為に抽出した市民を法廷審理の場に裁判官とともに同席させ、審理及び判決に市民感覚を反映させようとする制度である。司法において先行的に導入されているシステムを、立法、行政にも導入すると考えればさほど極端な提案ではないと考える。


 しかし、選挙以外の国民の政治参加について考える時、常にその度合いについて慎重に検討する必要がある。民主主義には直接民主制と間接民主制の 2 種類があることはすでに述べた通りだ。選挙以外に、国民が政治に参加する手段を検討することは、直接民主制的な制度の導入を検討することと同義である。従って、まずは直接民主制と間接民主制の機能的な相違について考える必要があるだろう。

 古代ギリシャにおいての民主主義は直接民主制だったが、近代民主主義国家は間接民主制を導入している。なぜ、近代民主主義は間接民主制を導入しているのだろうか。1 つの見方として、古代ギリシャでは集団の構成員の数が少なく、全員で話し合う直接民主制が機能していたが、国家規模が大きくなった近代においてはみんなで話し合うことが困難になり、代表を選出して代わりに話し合ってもらうという間接民主制が導入されたという考えがあるだろう。この見方では、あくまで市民の直接参加を原則とする直接民主制が理想であり、間接民主制はそれが実現困難であるがゆえに、代替手段として導入されたと解されている。しかし私は、間接民主制は民主主義の本質的目標である個人の尊重の実現を担保するために考案された手段であると考えている。

 直接民主制は「個人の尊重」の実現という観点から見て重大な欠陥を秘めているのである。その欠陥は古代ギリシャの時代からすでに指摘されていた。紀元前 4 世紀の後半、アリストテレスは『政治学』において政治体制について分析を行った。この中でアリストテレスは、政治は 1 人の支配者による支配で良いものである「王政」、悪いものの「僭主政」、少数による支配でよいものである「貴族政」、悪いものである「寡頭政」、多数による支配で良いものである「国制」、悪いものである「民主政」に分類できるとした。民主政がアリストテレスによって悪い政治制度に分類された最も大きな理由は、デマゴーグ(大衆扇動者)の出現の可能性である。直接民主制は、時に大衆の感情をあおり、理性的でない意思決定に導く扇動者を生む可能性を秘めている。このアリストテレスの問題意識が示す通り、市民は時に誤った判断をする可能性を秘めている。特に特定の対象への怒りなどといった感情に押し流され、個人の尊重とは相反する意思決定を行う可能性を秘めており問題だ。

 具体例を見てみよう。スイスには直接民主制的な制度が存在する。レファレンダムとイニシアチブだ。レファレンダムは市民が連邦議会の制定した法律を廃止することができるシステムだ。100 日以内に 100 万人以上の署名が集まった法案を国民投票にかけることができる。イニシアチブは国民が憲法改正を発議できる仕組みである。18 か月以内に 10 万人の署名を集めると憲
法改正の発議ができる。しかし、個人の尊重とは相反する内容が、この制度を使って憲法の中に書き込まれるという事態が実際に起こっている。2009 年にはイスラム教寺院であるミナレットの建設を禁止する条文が、賛成 58%で可決され、憲法に書き込まれた。その翌年には外国人犯罪者の国外退去を求める条文が賛成 53%で可決された。民衆のイスラム過激派などへの反発から、個人の信教の自由といった人権を制約する内容が含まれる条文が可決されてしまった例といえるだろう。国際法との整合性も問われ、非常に問題のある内容であるといえる。


 アメリカの州民投票においても同類の問題が発生している。不動産業者や家主による人種差別を禁じた法律の廃止を求めた1964年のカリフォルニア州の州民投票、不法移民への社会サービスの提供の制限を求めた1994年のカリフォルニア州の州民投票、同性愛者に対する差別的措置を求めた 1992 年のコロラド州の州民投票などである。


 以上に述べてきたことから、私は国民の政治参加の促進を図るため、直接民主制的な制度の導入を図る必要があるが、その制度を利用してしめされる国民の意思決定が、立法過程において持つ拘束力については慎重な検討が行われるべきであると考える。いったいどのような制度を導入するべきなのか。私は検討すべき制度の形を大きく 2 つに分けることができると考える。

 1 つ目は国民投票のように、有権者全員の投票によって政策決定を行う機会を作る事。2つ目は先ほど挙げた「くじ引き民主主義」のように、抽出した市民による政策決定の機会を作る事である。ここから、この 2 つの案に関して検討をしていく。私は以下の 2 つの軸を持って検討に当たりたい。1 つ目は「国民の主権者意識の向上に資するか」。2 つ目は「民主主義の成立条件を脅かす可能性の有無」である。

 まず前者について検討しよう。現在の日本でも限定的な場合に限って、国民投票が行われることがある。日本国憲法が明文で規定している直接民主制的制度としては、最高裁判所裁判官の国民審査(第 79 条)、地方特別法の制定に関する住民投票制度(第 95 条)、憲法改正に関する国民投票(第 96 条)の3つがあげられる。(このうち、79 条の国民審査に関しては、最高裁判所の裁判官の退任を決定することができる制度であり、政策決定とは言えないことから、国民投票的な制度とは分けて考えるべきだという説も有力である。)


 しかし、日本においては国レベルでの個別具体的な政策に関して国民が直接に意思決定を行う機会は確保されていない。これに対し、世界には国民が直接的に政策決定を行う機会を制度上担保している国がある。先ほど例に挙げたスイスのレファレンダムとイニシアチブがその代表的な例だ。

 まずは第一の軸「国民の主権者意識の向上に資するか」についてみてみよう。この点について、様々な事例やデータを見てみると、一概にはどちらとも言い難い状況が存在する。アメリカ合衆国におけるある実証研究では、国民投票と類似する制度を有する州の住民の方が、制度を有しない州の住民に比べて、自らの政治的能力に高い自信を有しているという事が示されている。


 他方で、これに対しては統計的なデータを用いた反論がなされている。国民投票の投票率は、総選挙に比べて低く、特にスイスやイタリアなど、国民投票の回数が多い国では低投票率が目立つのだ。イタリアでは1974年以降上下はあるものの、全体として投票率が低くなっていく傾向がみられる。(入手できたデータが 2004 年までのもののみだった。その中での最低投票率は25.7%となっている。スイスでは 2000 年以降 50%前後を推移している。平均は 45%にとどまる。)

 また、アメリカでの別の研究では、国民投票が頻繁に行われることと、政治能力に関する自信の指数の低下との間に相関関係があることも明らかにされている。このように、国民投票的な制度が国民の政治参加の促進につながるか否かについては、各集合体の状況や、または実施頻度などによって様々な結果が導きだされる可能性があり、一概に結論づけることは困難である。従って、このような制度の導入の是非については、2 つ目の基準である「民主主義の成立条件を脅かす可能性の有無」から検討していく。


 民主主義の成立条件の 1 つ目に私が掲げたのは、「構成員の多くが投票行動を通して意思決定に参加する事」である。国民投票的な制度が存在することが、市民の投票行動を抑制するという可能性があるだろうか。市民の投票があってこそ成立する制度なのだから、すくなくとも内在的にこの成立条件を脅かす危険性を秘めているとは考えられないだろう。先ほど挙げたように実施頻度などによっては低投票率を招く可能性を持っているといえるが、それは制度の枠組み自体の問題というよりも運用の問題である。制度自体の可否について検討すれば、この条件を脅かす可能性は少ないと言える。


 2 つ目の成立条件としては「自由に意見が発表され、構成員が自らの意思決定に対し外的圧力を一切受けない状況」を上げた。これに関しては、制度上の問題というよりも、制度の利用に関して外的圧力がかからないよう求めるものであり、制度自体の可否についての検討には関わらない。

 3 つ目の成立条件は「意思決定過程において十分な議論がなされ、反対派・賛成派の間に相互理解がなされる事」である。この観点から見ると、国民投票的な制度には問題があると考えられる。第一に、国民投票においては議論の機会が確保されていない。意思決定に関わる人間が全有権者であるため、この間に成熟した議論を生むのは不可能であるといえるだろう。


 また、国民投票が市民の間に相互理解どころか分断を生むという事例がある。いくつか紹介しよう。1950 年、ベルギーで国王の復位に関する国民投票が行われた。ベルギー国王は第二次世界大戦中国外に逃れており、戦後になってその復位の是非が国民投票にかけられたのである。結果としては賛成派が勝利を収めたのだが、その結果に納得しない反対派が暴動を起こし、国王が復位を辞退。暴動は終息する。しかし、この国民投票では、オランダ系住民の地域では賛成多数、フランス系住民の地域では反対多数といったように、地域間での意見の相違が明かになり、深い分断を残す結果となった。


 もう 1 つの例としては 1973 年の北アイルランドの帰属に関する住民投票があげられる。北アイルランドがイギリスに残留すべきか、アイルランドに併合されるべきかを問う住民投票が行われ、約 99%の投票者がイギリスへの帰属を選択した。しかし、この時アイルランド併合派のカトリック陣営がボイコットを呼びかけたため、この投票は住民の意見を十分に反映したものと言えず、単に両陣営の対決を煽る結果となった。


 第 4 の条件は「いかなる権力であれ決して奪ってはいけない基本的権利の保護を、制度的に担保すること」であった。国民投票的制度が個人の権利を奪うような内容の法律・政策を生み出す可能性を秘めているのは、以前述べたとおりである。


 このように見ていくと、国民投票的な制度は、民主主義の成立条件を脅かす可能性を秘めており、導入することは良策ではないと考えられる。特に議論の機会を確保しづらい点、社会の分断を生む可能性を秘めている点は無視できない。

 では、次に一定数の国民を抽出して政策決定の場に参与させる制度について検討しよう。現在、世界各地で「熟議民主主義」と呼ばれる試みがなされている。先ほど例に挙げた「くじ引き民主主義」もこれに類をなすものと言えよう。専門家と一般市民が科学技術政策について熟議する「コンセンサス会議」(デンマーク)、無作為抽出の市民が特定のテーマを熟議し、意見の変化度合いを測定する「熟議世論調査」(米、英、豪州など)など、すでに実例が存在する。


 具体的にはどのような制度なのか。基本的に熟議民主主義はミニ・パブリックスと呼ばれる比較的小さな市民の集合体を基礎にして行われる。具体的なプロセスを見ていこう。

 現在最も多く実践されている熟議民主主義の形態は、熟議型世論調査である。まず、無作為に市民を抽出する。(平等性と代表制には配慮する。)次に、選出された熟議参加者に対して公平に専門知識・情報の供与をおこなったあと、小グループに分かれ熟議を行う。その後、全体での熟議に移る。(このとき、熟議前と熟議後での選好の変更を確認する)。このシステムの中では専門家は知識を与えるのみで意見の表明は一切しない。

 実際に熟議世論調査を実践した所、参加者に次のような効果が確認されている。第一に熟議は変化をもたらす。熟議のプロセスを経たのちの参加者たちの意見は、当初の意見と顕著に異なっている。第二に熟議世論調査の参加者の多くが、参加以前に比べて見識を深めて帰る。これは、参加前と参加後に行った事実に関する質問に対する回答の変化によって明らかになっている。第三に、この意見の変化は情報を得たか否かに関わっている。第四に熟議を終えた参加者たちが有効感と意欲を高めて帰っていくことが分かっている。参加者たちは数か月にわたって学習と参加を継続しようとすることが明らかになっているのだ。最後に熟議を経た世論調査の結果は一般的に行われる調査の結果より一貫した結果になる事がわかっている。

 この効果を踏まえ、熟議民主主義的な制度の導入の是非について、「国民の主権者意識の向上に資するか」「民主主義の成立条件を脅かす可能性の有無」の 2 点から検討していこう。

 まず「市民の主権者意識の向上に資するか」について検討しよう。上記の熟議世論調査によって得られた結果から、熟議民主主義は市民の政治意識の向上に資することが分かっているので、この点についてはこれ以上検討しない。


 次に「民主主義の成立条件を脅かす可能性の有無」について検討しよう。第一の条件は「構成員の多くが意思決定に参加する事」である。熟議民主主義は参加メンバーを限定する特徴がある。ただし、一部の固定メンバーによる意思決定を前提としているわけではなく、全ての有権者が参加権を持ちうる状況を作ることになるので、この条件を脅かすとは言えない。ただし、こまめなメンバーの入れ替えといった措置が必要ではあるだろう。

 第二の条件は「自由に意見が発表され、構成員が自らの意思決定に対し外的圧力を一切受けない状況」である。これについては、国民投票的な制度の投票の是非について検討した時と同様の事が言える。熟議民主主義のシステムは国民の参加を求めるものであり、制度の内部からこれを抑制する力が発生することは想定できない。

 第三の条件は「意思決定過程において十分な議論がなされ、反対派・賛成派の間に相互理解がなされる事」である。先ほども述べた通り、熟議民主主義を経た人々の意思は、それを実施しない場合よりも一貫性を持つことが明らかにされており、第三の条件を満たすことに大きく貢献することが可能と考える。

 実際、人々が多様な意見に触れることで、考えをより穏健化させるという研究もある。ペンシルベニアの研究者らが、朝の通勤バスにおいて、政権に関わる内容のラジオを放送し、聞く前と聞いた後で乗客の意見がどのように変化したかを調査した。流したラジオ番組は、1:政権批判的、2:政権擁護的、3:批判と擁護の両方、4:ラジオ放送なしの 4 種類である。この 4 つを 15 日間、58 台の通勤バスルートでランダムに流し、15 日後にバスの乗客の意見の変化を調査したものだ。結論としては 2 パターンの分析結果を得た。1 つ目は政権批判あるいは政権擁護ばかり流した時は人々の意見に変化はなかったというものだ。2 つ目は批判と擁護の両方を流した時には、人々の意見が穏健化したというものである。この調査は、人は一方の意見を浴びせられても自分の意見を変化させないが、異なる意見を並立して聞くと意見を変化させるという事を示したという点で、大変興味深い。

 この調査結果からも、無作為に抽出された多様な意見を持った人々と熟議を重ね、様々な意見を知って結論を得ようとする熟議民主主義の取り組みは、民主主義の成立条件 3 をより確かなものにしていくためにも有効な手段であるという事ができる。


 第四の成立条件は「いかなる権力であれ決して奪ってはいけない基本的権利の保護を、制度的に担保すること」であった。この条件は、制度そのものの内容というよりも、憲法との関係において考察すべき点であり、具体的な導入方法を考える段階で詳細に検討するものとする。


 このように見ていくと、国民の政治参加の機会を増大させるためには、国民投票的な制度の導入よりも、熟議民主主義のような制度を導入することが得策であると考えられる。私は日本の国政にも、熟議民主主義の制度を導入することを提案する。現在すでにある選挙によって選ばれた議員による議会の制度は残した上で、それを補完し、かつ国民の声をよりダイレクトに国政に反映させるためのシステムとして、「国民諮問委員会」(仮称)のようなシステムを導入してはどうだろうか。


 国民諮問委員会の委員は無作為に抽出された市民によって構成される。市民たちは議題ごとに組織され、一度参加した人は基本的に一定の年数候補から除外される。より様々な人が参加する機会を確保するためである。国民諮問委員会にかける議題は議会の採決に基づく。衆参両議院のうち、どちらかの院で3分の1の議員が諮問委員会にかけることに賛成した法案は、国民諮問委員会にかける。議会に提出される法案については、微細な改正の為に提出された法案をのぞき、全て国民諮問委員会にかけるか否かを決議しなくてはならない。国民の生活に関わる法案、国民の私権を制限する可能性のある法案などについては、諮問委員会にかける事を義務とする。現在、国会では年間数100本に及ぶ法案が審議され、その中にはあまり賛否が分かれない微細なものも多い。

 そうしたものまですべてを国民諮問委員会にかける必要はないと考えるため、すべての法案を国民諮問委員会にかける義務は課さない。国民諮問委員会にかけるか否かの議決を3分の1の議決で可決としたのは、過半数とすると与党にとって不都合な議題は国民諮問委員会にかけなくても良い状況が生まれてしまうからだ。


 国民諮問委員会の具体的な審理の過程については、先述の熟議民主主義のような方式を採用する。注意すべきは、どのように熟議がなされたと結論づけるかである。アメリカ・ニューヘイブンで実施された熟議世論調査を分析した、ジェイムズ・フィシュキン(スタンフォード大学国際コミュニケーション学部学部長、熟議民主主義センター所長)、シンシア・ファーラー(イエール大学・都市学術企画ディレクター兼同大政治学部講師)は熟議の質は以下の 4 点から評価されるとしている。


1 網羅性:ある問題の一面に基づいてなされた主張が、他の一面に基づく主張によって応答されている程度、さらに、応答としてなされた主張が、さらに逆の立場から応答されている程度。
2 情報:人々が用いている情報が応分に正確である程度。
3誠実性:是々非々に応じて問題を判断しようとして、人々が参加している程度。
4 多様性:関連する母集団内の意見の多様性を、熟議の参加者が代表している程度。


 この基準を採用するのであれば、熟議の程度は、審議時間などといった一様な基準では図りえないものであることがわかる。私は熟議の程度を図るため、以下のようなシステムを提案する。国民諮問委員会は議長を選出し、議事運営を担当させる。議長は一定程度議論が深まった段階で、委員会に審議の終局を計る。これに過半数の委員が賛成した場合、審議を集結し採決に入ることができる。ただし、一定時間の審議時間を経てもなお、過半数が終結に反対をし、審議終局が一定回数以上否決された場合、議長は職権で審議を終局させることができる。議長が職権を発する際の基準については、様々な検証をして厳格に定める必要がある。審議終結後、国民諮問委員会は議題となった法案について採決を行う。国会においても同じ法案が審議される。そこで、国会においての議決と国民諮問委員会においての議決が異なった場合、どのように処理をするかが問題となる。


 この時、国民諮問委員会の議決と、国会の議決のどちらが優先されるかが問われることになる。国民を主権者とする民主主義の原理に従えば、主権者である国民が直接参与した国民諮問委員会の議決を優先すべきだとも考えられる。しかし、国民諮問委員会は一部の国民が参加したにすぎず、なおかつその委員は無作為に抽出され、国民から直接的な委任を受けていない。従って、最終的な議決には、全国民から直接に委任を受けた国会議員によって構成される国会が担うべきである。その一方で、国民諮問委員会はただのご意見番であってはいけない。明確な効力を持って国政に国民が参与する機会を作ることが、市民の政治意識の向上につながると考える。そこで、憲法における衆議院の優越の考え方を参考にした制度を提案する。国会の議決と異なる議決が国民諮問委員会でなされた場合、国会は再度その法案を審議しなくてはならない。また再度採決する場合には、過半数ではなく、三分の二以上の賛成がなくては可決されないものとする。このような制度を導入することで、国民が政治に参加する機会を増やし、主権者意識の向上を図る事が可能なのではないかと考えるが、いかがだろうか。

 また、国の制度としてこのようなシステムを導入するだけではなく、国民が日常の片隅で社会に思いを寄せ、政治的な事を話すことができる場を作っていくことも重要だ。私は実践としてこの 1 年強、自分で立ちあげた「Colorful democracy」という団体を運営してきた。ここでは、始めた理由や、ここまでの取り組みの中で私が感じている事などを簡単に述べておこうと思う。始めるにあたって考えていたことは、以下のようなことだ。
社会にかかわるためにはいくつかのステップがあると思う。まず、ステップ 1。これは社会に対して全く興味の持てない段階である。次に社会に関して知り、わかり、自分の意見を持てるようになるステップ 2。そして最後に社会に対してアクションを起こすことができるステップ 3 である。私は今の社会にはステップ 2 が足りないのではないかと考えた。具体的に考えてみよう。大きな駅などを歩いていると時々政治団体などが署名集めなどをしているのを見かける。彼らは社会についてある程度知識があり、自分の考えを持って活動している人たち、すなわちステップ 3 にいる方たちだ。観察していると回りを歩いているほとんどの人が立ち止まろうとしない。特に制服を着た高校生など、若い世代はほとんどの人が無視して通り過ぎていく。彼らはステップ 1 にいるのだ。ステップ 1 からステップ 3 を見てもなにもわからない。その何もわからない所にいきなり飛び込んでしまっては、迷子になる可能性が非常に高い。そんな危険を冒したがる人はそうそういないだろう。そこでステップ 2 の出番である。ステップ 2 は様々な視点からの意見を知り、その違いを理解し、自分の中に落とし込んでいくことができる場だ。学校で習うような社会の仕組みだけではなく、現実にどのような課題があり、それにたいしてどんな意見があるのかを知ることができる場でなくてはいけない。先ほどの例えでいえば、方角を知り、地図を手に入れることができる場である。このステップ 2 を作ってみよう、というのが「Colorfuldemocracy」設立の主な目的だ。現在 9 人のメンバーと共に月に 1 回の集まりを中心に活動している。メンバーのほとんどは「社会に対して少し興味はあるが、ほとんど知識はない。」という人たちだ。この 1 年間の取り組みは主に 2 つの種類に分けることができると思う。前半は毎月私がなんかしらのテーマを選び、基礎的な知識の資料を作るなり、話をするなりした上で、意見交換をするという形で開催してきた。

 後半では実際に社会の現場で活躍している人をゲストにお迎えして話を聞かせていただく、という企画を行ってきた。今までに以下のような方たちのお話を聞かせていただいている。


・与野党の現職衆議院議員
・地域おこし研究員として活躍する若者
・災害復興支援 NGO で活動されている方
・都市と田舎の 2 拠点型の生活をしながら、麦わらストローの作成を行っている方
・共同通信社記者

 前者の取り組みも、慣れてくるとそれなりに形になるのだが、私は後者のゲストをお呼びする取り組みの方に手ごたえを感じている。特に現職衆議院議員をお呼びした回では、普段直接話をすることなどほとんどなく、遠い存在だと感じがちな議員が直接話をしてくれる、というなかなかない機会を提供することができた。終了後、参加者からは「政治家って意外と若者ともちゃんと話をしてくれるんだ」「政治が少し身近になった」といった声が寄せられ、小さいながらも政治に近づくきっかけを作れたのではないか、という手ごたえを感じた。


 その後の様々なゲストとのお話でも感じることだが、特に私たち若者にとっては、隔離されがちな社会の現場を肌で知る人たちと直接話をさせていただく、ということは、社会への興味の端緒となりえる、という事を感じている。まだまだ始めてから 1 年に過ぎず、不満足な点だらけだが、今後とも活動を続けていきたい。Colorful democracy のように、日常の中に社会や政治への窓口となりえる場所が存在し、市民に政治的なテーマでの熟議を促し、常に興味喚起をしていくことが、健全な民主主義国家の醸成に資するものであると私は信じる。

参考文献(シリーズ共通):

『民主主義 』    文部省著作教科書   文部省  角川ソフィア文庫
『詳説 世界史 』  木村靖二 ・岸本美緒・ 小松久雄   山川出版社
『日本国憲法の論点 』 伊藤真 トランスビュー
『アフター・リベラル 』 吉田徹 講談社
『リベラルの敵はリベラルにあり』 倉持麟太郎 筑摩書房
『民主主義という不思議な仕組み 』 佐々木毅 筑摩書房
『GLOBE』       通巻 234 号 朝日新聞社
『熟議民主主義ハンドブック 』ジョン・ギャスティル他 現代人分社
『セレクト六法 』 岩波書店
『直接民主制の論点 』 山岡 規雄 国立国会図書館
『代表制民主主義と直接民主主義の間』 五野井 郁夫 社会科学ジャーナル
『日本の思想 』 丸山眞男 岩波書

内閣府「子供・若者の意識に関する調査」 2019 年実施
NHK「日本人の意識」調査 2018 年実施
言論 NPO「日本の政治・民主主義に関する世論調査」 2018 年実施
倉持麟太郎「このクソ素晴らしき世界」presented by #8bitNews #8 日本国憲法のアイデンティティ?~与野党の憲法論議に決定的に欠けているもの

倉持麟太郎「このクソ素晴らしき世界」presented by #8bitNews #6 コロナ禍における憲法の実践とは? 横大道聡(慶応大学法科大学院教授)氏と議論


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