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「母 性」by湊 かなえ を読んで

 作家 湊 かなえさんが「note」に在籍されていた時のこと、二度ほど私の記事にコメントをいただいたことがあった。

「お嬢様を亡くされたのですね。…」と、いろいろ書いてくださっていたのに、私は湊かなえさんの記事に飛んだ時、長い長いサスペンスの小説を書いておられたので、さすがに読めなくてお返事を書く心の余裕すらなく、そのままになってしまい、いつしか亡き娘を見送るための忙しさに忙殺されてしまっておりました。

 ある時、NHKの「朝いち」で「湊 かなえ」さんの名前を聞いて、どこかで聞き覚え いや 見覚えのある語調のいいお名前を、思い出すのにしばらく時間がかかりましたが、「そうだ、あの時の!」と慌てて「note」を開きましたが、もう、跡形もなく消されておりました。

そうだったんですね! 立派に作家として独立されたんですものね。
私はあの時のお礼とやさしいお言葉を掛けていただいたことへの 感謝を伝えられなかったご無礼を 今更のことのように、ここに書かせていただきます。
その節にはありがとうございました。

サスペンスが好きでない私ではありましたが、この「母性」という本だけは一度読んでみたいと思っておりましたので、平積みされていた「未来」という本と一緒に購入いたしました。

「母性」

 この本に書かれていることは 日本社会で第一子として生まれてきた女子の、ある一種、共通した運命というか宿命が 書かれてあることに気づきました。

 我が娘と同じような「母性」という本の中の長女を知って、私は改めて「我が娘だけではなかった!」のだと、不謹慎にも安堵して救われました。

「母性」について
 母性など本来は存在せずおんなを家庭に縛り付けるために、男が勝手に作り出し、神聖化させたまやかしの性質を表す言葉に過ぎないのではないか。

 母性は人間の性質として、生まれつき備わっているものではなく、学習により後から形成されていくものかもしれない。なのに、大多数の人たちが、最初から備わっているものと勘違いしているため、母性がないと他者から指摘された母親は、学習能力ではなく人格を否定されたような錯覚に陥り、自分はそんな不完全な人間ではなく、間違いなく母性を持ち合わせているのだと証明するために、必死になり、言葉で補おうとする。
              第二章 立像の歌 P、70

 「母性」の中の「母」としての女主人公は、自分の母が褒め上手な理想的な母親であったが故に 自分に子供が出来て母親になったとしても、母親から褒めて愛される子供として居たかった。

しかし、私は違った。大勢の姉妹のなかでの「谷間の子」であり、早くから親から精神的に独立していた。ということは、母親からの温かい愛を受けていなかった。

 5人の姉弟を亡くした「ひとりっ子」の妻になった私は 大勢の家族で受けられなかった愛をひとりっ子の妻として、私さえ気に入ってもらえれば 温かい家族愛に浸れるであろう!と、思ったことは 完全なる「若気の至り」で「誤算」だった。

 結婚して、第一子を希望するのは どの家も「男子」であった。

そこは、共通していた。
ところが生まれて来た子供は「女子」であった。
このことも、この本に書かれていることと、重なる。

考えてみれば、私の夫がこの小説の中の女性のように、親から褒められることを第一に自分の喜びとしていたことを 気づいたのは「母性」をよんでしばらく経った時だった。

 私の夫は息子として、幾つになっても子供の時のように可愛がられ褒められることを「良し」と思い込んでいた。そして、親は「親孝行をすることが親孝行だ」と、夫に刷り込んでいた。
そういう夫であれば、子供が出来「人の子の親になった」としても、作中の女性と同じで 親から褒められたい息子のままだということになる。

夫は幾つになっても、義両親の息子から独立できなかった。
いつまでも、義両親の「星」であり「親の想うがままのロボット」であり、そうありつづけたいと思っている人だった。

「嫁姑問題は どこの家でもどんな条件でも起ることなのだ!」ということを知っておくべきことだったのに、私はあたたかい家族愛を求めていたのだ

男と女がある限り、姑は女であり、息子は男であった。

  この本の数々の「母の手記」からうかがえる嫁姑問題は 事柄は違うにせよ、根本は同じことで、読んでいる間 我がことに重なり辛かった。

只、この本の長女である女の子と私の娘が
「自分が男子に生まれなかったことへの罪を被り、嫁姑問題の間に入って 母を助けたいと願っていた」ことの共通点が 見つかったことへの驚愕は 隠せなかった。

 そのための苦悩の結果は この「本の中の女の子の自殺未遂」であり、「我が娘の病に倒れる」共通点ではなかったか?

 私の場合、出産2日目にして病院のベッドの頭上から 姑が「次は男子をお産みやっしゃ!」と言われたとき「この子は 可愛がってもらえない」と、思い込んで とても娘を不憫に思ってしまったことがきっかけだった。 『どうすればこの子を可愛がってもらえるのか?』を 考え抜いて「義両親の理想の子にすればいいのだ」と、思いこんでしまったことが、娘の人生を大きく変えてしまった。

もともと、私はボーイッシュな女の子が好きだった。しかし、後から考えると、娘は義母ゆずりの女の子らしい洋服が好みだったのではなかったか?

しかしながら、義母が買ってくれる洋服は 義母の好みの垢ぬけていないペラペラな洋服を 押し付けられるようにして買ってくれる、有難くもない思いと、母親である私も 娘の意向を聞かずに思い込みでボーイッシュな服を着せることに ジッと耐えていたのだ。
洋服だけでなく、あらゆることが 大人の意向で決まっていった。

その気持ちを 娘は「なみだいろに さようなら」に書いていた。


 私はこの 港 かなえさんの「母性」を読むまで、母親として不完全な 自分であったこと、母性が足りなかったことへの懺悔でさいなまれていた。

世間一般には、女、メスには、母性が備わっているのが当然のような扱いをされているが、果たして本当にそうなのだろうか。
生まれつき、とりあえず備わってはいるが、環境により、進化したり退化したりしていくものなのだろうか。 
           第二章 立像の歌より

  確かに「子供は可愛い」しかし、母親として精神的にゆとりがなければ 「母性」は生まれ育ってこない。と、思う。だから、最近 生まれたばかりの赤ちゃんの死体遺棄や児童虐待が増えているのは 母親となった女性の 環境が問題なのではないか?
「母性」も周りの人の祝福があってこそ 生まれ育ってくるものなのだ!と 私も気がついた。

 周りのあたたかい環境こそが「優しい母性」を生み育てるのではないか?

多くの女性が子供を産みながら、しっかりと産んだ子供に向き合えない現実が 昔から現存していたことは確かであった。

そのことに、手をつけた作家:港 かなえさんの 勇気を私は尊敬する。
港 かなえさん自体、この本の帯に書いてられたことが、解説者:間室道子さんが紹介しておられる。

『母性』がハードカバーで出たとき、「これが書けたら、作家を辞めてもいい。その思いを込めて描き上げました」(中略)港 かなえさんがしっかり自分と向き合った跡がうかがえる作品。

 子供は女性だけでは作れない。
男性という、れっきとした相手があって二人で作り出した尊き命である。 にもかかわらず、昔から「男児を産めない女は失格」のような扱いをされ その上、無責任にも妊娠すると、消える男がいる。


 封建時代の長男が跡継ぎとして、長い間それが「良し」とされてきた。   それは ひとえにそれを望んだ家族が自分たちの安泰を約束されるからだ。   自分たちの老後の安泰の確約が欲しかったし、それを願っていたから… 
それは 「エゴ」のなにものでもない。

 生まれた子供を「産んだ女性一人に任せる」のではなく、「神様からの授かり者」ではなく「神様からのお預かり者」としての認識が 必要なのではないかと思う。

 私も一度はこの「娘とのこと」を書きたかった。しかし、書き始めると その重さに書けなくなって、何度か途中でダウンしていた。
それほどまでに、重い課題である。

それを、「母性」に書いてくださった湊 かなえさんは 女性として大した作家さんだ!と、頭が下がる思いでおります。

湊 かなえさん、「母性」を書いてくださり、ありがとうございました。






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