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まなざしが気になる。

可能な範囲で、美術館や展示を観に行く日々である。最近観たのは、マティス展(都美)、ソール・ライター展(ヒカリエ)、デイヴィッド・ホックニー展(現美)。
 
アートについて、私はきちんと学んだ訳では無いし、歴史や美術史は好きだが、詳しいことはわからない。ただ単に、観たいように観て、好きなように感じ、言葉になる手前のなんとも言えない感覚を味わいながら、ミュージアムショップで気に入ったものを手に入れて帰る、それが好きなだけである。

最近は、展示によっては、撮影が可能なエリアもあり、嬉しい。

マティス展より
マティス展より
ソール・ライター展より
ソール・ライター展より
デイヴィッド・ホックニー展より
デイヴィッド・ホックニー展より
デイヴィッド・ホックニー展より

最近の自分の傾向に気づいたのだけども、描かれている内容/撮影されている対象そのものよりも、見ている側(作者)のまなざしのことを考えていることが多い。

風景を、どうしてこうやって切り取ったんだろう。
どんな思いで、この景色を見つめていたんだろう。
どんな思いで、相手を見つめていたんだろう。
私のまなざしのこの感覚は、作者のものとは全く違うのか、あるいは少しは重なっているのか。

昔はこんなことあまり考えてなかったので、これは加齢や経験を積んだことによる変化なのか、あるいはなんなのだろう…と少し不思議に思っているのだ。

写真なんて、若い頃は、構図がかっこいいとか、そのくらいにしか思ってなかったのだけど、先日のソール・ライターは、モノクロ写真に無性に、まなざしのあたたかさを感じ、なんだか胸がいっぱいになっていた。


芸術家の見ている世界そのもの、まなざしそのものが気になっている。

視覚はただの水晶体の働きではない。その人の認知や無意識、個人的な想いが、見せるものと見え方を変えるからである。


心理学の人として、「感覚」「知覚」「認知」「行動」「思考」「感情」を分けて考え取り扱うことに慣れているし、最近もそれを他者にお教えする機会があり、そのことにアンテナが立っているのだとは思う。

そしてさらに、自分が、一歩引いて見つめる側にまわってきたからかもなぁ。などと思う。


読んでくださってありがとうございます。力が抜けたり元気が出たり、人間ってそんなもんかーと思ってくれたら嬉しいです。