象徴天皇制と平成ーー辻田真佐憲『天皇のお言葉』から

以前、拙著『平成の正体』で対談させていただいた辻田氏より『天皇のお言葉』をご恵投いただいた。平成も終わるこのタイミングに、何とも絶妙なテーマでの出版。『大本営発表』『空気の検閲』もそうであったが、今回も辻田さんの企画力に脱帽するばかりだ。

250のお言葉をとおして日本の近現代史をたどる本書。不勉強な筆者には学ぶところが多かったことは言うまでもないが、それにしても、『天皇のお言葉』の最大の魅力は、明治から平成にわたる4人の天皇の言葉を通して、それぞれの天皇の人柄というか人間臭さが味わい深く描かれているところにある。この点で、「君主をやめられない症候群」と題された第五章における、昭和天皇の記述こそこの本の醍醐味だといえるだろう。新憲法下においても繰り返される、昭和天皇の政治的発言もそうだが、「あ、そう」という独特な返事のバリエーションについての指摘など、なかなか飽きさせない。構成の妙とストーリーテリングの巧さで400頁弱を一気に読ませる、近現代史の好著といえよう。

さて、その第五章は次のような一文で締められている。

戦後の象徴天皇制は、昭和において未完成であったといわざるをえない。その完成は、次代に持ち越されることになった。

この一文から、本書が、近代化する日本に四代にわたって君臨した各天皇のユニークな逸話にただただ終始するのではなく、そうした逸話をとおして日本の近現代史の輪郭を描き出そうとする試みであることがわかる。例えば、この引用によって、私たちは自ずと平成とはいかなる時代であったか考えさせられることになる。

拙著『平成の正体』では、平成の時代を振り返るうえで、次のような想定に立っていた。すなわち、平成とは、昭和の時代に作られた社会を支える諸制度が機能不全に陥る中、その機能不全の改革に失敗したり、あるいはそもそも抜本的な改革を先送りしたりすることで、社会の活力が奪われ、行き先が不透明な閉塞状態に陥った時代であった、という想定だ。例えば、前者に関して、小選挙制の導入を中心とした政治改革や新自由主義的な経済・産業改革が挙げられよう。後者に関しては、少子高齢化ならびに人口減少に対する対策、あるいは社会保障制度改革が典型といえる。

ようするに、平成とは、戦後日本の成功体験の記憶に溺れるままに、昭和の時代が残した課題を適切に処理することができなかった時代だということだ。こうした時代の認識はおおよそ正しい。しかし、その例外はもちろんあった。それこそ、この引用によって示されている、現行憲法によって制度化された象徴としての天皇である。

『天皇のお言葉』にもある通り、昭和天皇は、現行憲法でも君主であったことを忘れられず、象徴という憲法上の地位から逸脱するような言動を繰り返した。これに対して、今上天皇は明確な意志と深い思慮の下で、「日本国民統合の象徴」として理想的な天皇の在り方――憲法を堅持しつつも単なる形式主義に陥らず、「いきいきとして」日本社会に内在するべく――を平成時代をとおして追求したのであった。辻田氏によれば、今上天皇は、厳格に規定された国事行為と私的行為との中間に位置づけられる「公的行為」によってその理想を追求した。それが、被災地の見舞いや戦地の慰霊のための「旅」であった。

こうした今上天皇の能動性を現行憲法に対する脅威と見なす意見もあるかもしれないし――2016年の「譲位」に関する天皇のビデオメッセージに関してそのような意見も散見された――、またそこから、民主国家における天皇制の是非を論じることもできるであろうが、ここではそうしない。むしろ、注目したいのは、昭和の時代から先送りされた象徴天皇制の完成は何によって可能となったかということだ。それは言うまでもなく、天皇家の歴史を踏まえながらも、民主的な価値を尊重し時代の変化に向き合おうとした今上天皇の真摯さであった。それは、本書にも登場する近年の一連のメッセージに如実に表れているように思われる。

さらにここから、昭和の時代が残した課題を先送りすることに終始した平成の社会に何が欠けていたのか、考えることもできるだろう。問題は、平成の時代に改革を指導したエリートたちだけではない。国民一人一人が、バブル期には多幸症的雰囲気に飲まれ、その後の終わらない停滞期には、自分だけは何とかなると社会の実情に目を背けてこなかっただろうか。そんな中で見失ったもの、それこそ時代と向き合うこの「真摯さ」ではなかったか。『天皇のお言葉』を読みながら、そんなことを考えた。

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