ほんとにできるの? FCバイエルン・ミュンヘンでコーチ業

四十路突入の小さいオッサンが、FCバイエルン・ミュンヘンでのコーチ業へ挑戦する中、ドイ…

ほんとにできるの? FCバイエルン・ミュンヘンでコーチ業

四十路突入の小さいオッサンが、FCバイエルン・ミュンヘンでのコーチ業へ挑戦する中、ドイツのサッカー指導者ライセンス取得や、色々と経験する日本とドイツの日常生活やサッカーの違いを綴るnote。 読む人いるのかな。

最近の記事

コミニケーションの方法 アイコンタクト編

このブログのテーマの一つとして、「日本とドイツの違い」も取り上げています。 色んなことが違いすぎて、何から書けばいいのかと考えていたら前回の更新から一年以上経ってしまっていました。 日本語には「目は口ほどに物を言う」ということわざがありますが、その時の「目」が表しているのは、目つきも含めた「態度」です。 そもそも、日本人はあまり他人と会話するときにあまり目は見ないし、目を合わせすぎると、ジロジロ見ないでよ。とか、なんか攻撃的な印象を持たれることもあります。 ドイツでは

    • B級ライセンス「適性テスト」で大恥かいた話

      先日、指導者ライセンスをの『適性テスト』を受け行きました。 場所はオーバーハッヒングのスポーツシューレ(トレーニングセンターみたいな建物)、その一室に集まった、指導者や、それを目指す若者たちの中に私もいました。 試験内容はいたって簡単、「筆記試験」と「実技試験」 「筆記試験」は簡単な作文、「実技試験」は7対7のミニゲームとシンプル極まりない「適性テスト」 「よっぽどの変わり者」以外、だいたい誰でも受かるこのテストは、サッカー指導者ライセンス「B級」の講習を受けるにあた

      • 現在の活動(3) 在独邦人向けサッカー教室

        前回からの続きとして今回も、今(*2021年5月現在)私がミュンヘンで行なっているサッカーを通じた活動、主に3つ(監督業、スクールコーチ業、在独邦人向けサッカー教室)を一つずつ分けて紹介させていただこうと思います。 今回は、「在独邦人向けサッカー教室」についてです。 ミュンヘンには約5000人の日本人の方がお住まいで(※2018年10月調べ)、その内訳は、日本企業からの出向社員とそのご家族、私のようなこちらにある企業に現地採用されている人、国際結婚された方、留学または研究

        • 現在の活動(2) スクールコーチ業

          前回からの続きとして今回も、今(*2021年5月現在)私がミュンヘンで行なっているサッカーを通じた活動、主に3つ(監督業、スクールコーチ業、在独邦人向けサッカー教室)を一つずつ分けて紹介させていただこうと思います。 今回は、昨年の夏から活動させてもらっている「スクールコーチ業」についてです。 ドイツでは基本、サッカーをやりたい子ども達は、地元のクラブに入ってプレーします。練習の頻度は大体、週に2回くらい。そして週末に試合があるという、「週3」くらいが「クラブで過ごす日」で

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          現在の活動(1) 監督業

          今回からは、今(*2021年5月現在)私がミュンヘンで行なっているサッカーを通じた活動、主に3つ(監督業、スクールコーチ業、在独邦人向けサッカー教室)を一つずつ分けて紹介させていただこうと思います。 まず、私のメインになっている「監督業」についてです。 私は、2007年にドイツに渡ったのですが、2、3ヶ月経って語学学校や、こちらの生活に慣れてきた頃、家の近くにあるスポーツクラブに向かい、そこの会員になりました。 それが、現在でも私が活動しているクラブ「FT Münche

          日本とドイツでは「サッカー」の、何が一番違うの?

          日本サッカーとドイツサッカーを比較する中で、まず触れておきたい「違い」として「チーム構成の違い」があります。これは私自身が感じる日本とドイツの「大きすぎる違い」の一つです。 まず、日本の少年団、中学、高校、大学、地域クラブ、社会人チームの構成は割愛させていただきますが、大雑把にいうと「各年代ごと」「学校ごと」にチームがあり、ある一定の年齢に達すると、ある種、強制的にチームを変えて行きます。 また、社会人チームにおいては、グランドとクラブハウスを持っているチームは日本におい

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          初投稿

          1年前から登録だけはしていた「note」で、ついに初投稿します。 初投稿は、自己紹介にしようと思います。 1980年(昭和55年)大阪府堺市生まれ。 スポーツ全般は好きだった少年時代、1993年のJリーグ発足と同時に中学校のサッカー部に入部、高校、大学もそのままサッカーを続け、体育教師になった時もサッカー部の顧問をしていました。 「このまま大阪で教師をしていくのかなぁ」と、ぼんやり考えていた2006年に、母を乳がんで亡くし、その1年後の2007年4月末に、今思えば何の