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眠りの畔

 彼の肩から荷物が滑り落ちた。足下の砂利とぶつかり合い、ざわついた音を立てる。
 木立を抜けた先で開けた視界。大きく蛇行しながら穏やかに揺蕩い、南西へと流れる川。水面を滑る緩い風に、さざ波が幾重にも広がり、水際で砂利に砕ける。夕日が川辺に立つ木の影を黒く水面に落とす。
 遠い対岸に見える山は、空の茜とは一線、濃い藍に沈んでいる。山の向こうに沈む紅い夕日。その周辺で細い掻き消えそうな雲が、明るい橙の帯を南北に走らせている。
 ……昼と夜の境。見えることができるのは、刹那の刻。
 彼のこめかみを、また一筋の汗が伝った。肌に残る塩っぽい汗の名残を伝って、ざらついた汗が、また彼の肌を伝う。汗をさらう風は緩やかで温い。
 滑り落ちたリュックの上に、そのまま腰を下ろした。水の匂いが彼の鼻腔を満たす。穏やかな水音に少し近くなって、彼は空を見上げた。
 深い藍。夕日に近づくにつれ朱に染まり、左右の山端で紫に散り、再びまた藍に沈んでゆく。刹那の空の色。
 遠くで昼の明るさを名残惜しむかのような鳥の声がした。長く尾を引くことなく、夕焼けの空に吸い込まれていく。
「ここなら」
 ――今夜こそ、夢を見ることができるだろうか。刹那の藍から夜に沈み行く空を眺め、穏やかな水面の音を聞きながら眠ることができたのなら。
 彼が思考を巡らせる僅かの間にも、空と遠くの山は色を変え、夜の色に近づいてゆく。濃く塗りつぶされた、重い夜の色に。内に何かを潜ませても、決してその正体を見せることの無い、冷たい夜の色に。

 3回。深呼吸を重ねて、彼は腰を上げた。下敷きにしていたリュックから、寝袋を引っ張り出す。……彼が無言のまま最低限の寝床を整えたころには、遠くの夕日は色褪せ、彼の頭上から夜の黒が西の空へと広がり始めていた。
 一番星が遥か高みで、その白を煌めかせる。西へと徐々に降りて行く夜の帳を追って、星々がその姿を現してゆく。
 濃い水の香り。躊躇いがちに声を上げ始めた、虫の声。不規則に重なる、砂利に砕ける水の音。強い風が吹いて、どこかで木々がざわめく。
 最後の茜色が対岸の山の端に消えるのを見届けて、彼はゆっくり瞼を降ろす。

 ――彼はずっと、夢を探していた。

 彼の眠りがただの空洞に変わったのは、いつの頃だったろう。
 瞼を閉じる度に彼の意識がすとんと何処かへ降りて、朝になれば強制的にどこか深みから引き上げられる。その合間に見る夢はなく、彼にとっては、入眠と目覚めの間にただ時間の隔たりがあるだけとなった。
 ……幼い頃、彼は夢の中で自由だった。見知らぬ国を旅し、獣のように野を駆け、遥か高みから山河を見下ろし、不思議な物事に出会う度に驚嘆し、知らない友と冒険潭を語り合った。現実の殻を破り捨てて、彼は何処へでも行くことが出来た。何よりも夢を見る為に、彼は毎晩床に着いた。

 ――彼はずっと、夢を探していた。
 また何時か、夜の空洞に色鮮やかな夢が立ち戻ることを願って。

 今夜もまた、東から太陽が昇るその刻まで、夜の帳が音も無く水面に落ちる。

どこか遠くかもしれない。会うこともないかもしれない。 でもこの空の下のどこかに、私の作品を好きでいてくれる人がいることが、私の生きていく糧になります。