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労働運動と中間層運動から考えてみるこれからの労使関係①

ちょっとタイトルが長いですね。労使関係について、中小企業経営者側から提示されている見解とその現状があります。その見解と原状に対して違和感を感じていたことの正体を、数カ月ほど考えていまして・・・。

そろそろ、違和感の正体について、自分なりに見つけたと思い始めてきたので、それを何回かに分けて、書いていこうかと思います。まだ、根拠が十分ではないということもあると思いますが。

研究成果なんてたいそうなものではないですし、論文なんてほどのものを書き上げるとまではいかないかもしれません。ただ、何回かに分けて書いたことを、一つにまとめて、労使関係について未来からの逆算ができるようなきっかけにと。

労使関係と中間層

労使関係というと、労働者と使用者の関係ですね。そして、労使関係については、「労使紛争」といわれるように、その対立関係があったりします。1960年代であれば、「資本家VS労働者」「資本主義VS社会主義」というようにとらえることもできるかと思います。

ただ、社会の階層では、単純に労働者と資本家の二極化というわけではないのですよね。「中間層」というものが存在している。

中間層は、資本家階級と労働者階級の間にある階層。典型例が、中小企業です(旧中間層、新中間層という言葉もありますが、ここでは中小企業の社会での位置づけで、新旧という点については置いておきます)。

そうすると、「資本家VS中間層」「中間層VS労働者」という構図も出てくるはずです。そして、その構図に、「資本主義VS社会主義」という対立はどのように影響しているのか?ということも考えたいところです。

中間層を資本家として見る

中間層でも「使用者VS労働者」という構図が出てきます。使用者=資本家という前提に立つと、この構図です。したがって、大手企業であろうが中小企業であろうが、「労使対立」という「緊張関係」は生じますね。

この緊張関係が起きると、どうなるのか?

大手企業であれば、労働者は組合を結成し、交渉を行い、時にはストライキなどの実力行使にでて、労働条件の改善をしていくという過程がでてきます。このプロセスは、中小企業であっても同じになってきます。労働者の権利に対して、大手企業と中小企業が区分されていないからです。

つまり、企業規模は無関係で、(労使関係を離れて)個人は対等であるということよりも、労働者と使用者の実体的な力関係を鑑みているためです。社会的地位によるパワーバランスの公平さを図っているわけです。

ただ、この関係性により、「労使関係の緊張感を持ち、経済成長させ、労働条件を改善していく」ということが、中小企業の実態としては困ることがあった、特に地方では。

経済成長と人手不足の問題

1960年代から1970年代にかけての経済成長。この成長に伴い、地方から都市へという人の流れができてしまった。さらに、「高校」進学、そして「大学」への進学という就職の前の段階でも、地方から都市への人の流れが加速していった時期にもなります(なぜこうなったか?はまた別の記事に考察してみます)。

そうすると、地方の中小企業では「人手不足」という問題にとどまらず、「街に人がいなくなる」という危機感がでてくるわけです。そして、労使間の緊張関係により、経済成長と労働条件の改善というモデルが当てはまらないということになります。なぜなら、人が流出してしまうから、緊張関係の相手がいなくなってしまうから。

こうなると、会社の将来は人がいないことによる衰退となり、ひいては街に人がいないことになり、さらに会社は衰退していくということになりかねない。

そこで、「労使の緊張関係モデル」の概念を変えていくということが生まれてきます。中小企業を資本家側ではなく、労働者側に寄せていくということです。

中間層を労働者側に寄せる

対立構造を「大手VS中間層&労働者」という構造でとらえていきます。都市に人が流れるのは、大手にみんなが志向するからだ、したがって、大手は敵であるという感じにする。

中間層での労働条件が改善できないのは、大手優遇政策を推進するからだ。大手優遇で大手の条件のほうがいいから、みんな大手に就職しようとしてしまう。そして、大手に就職したら、この町から若い人たちがいなくなる。

そして、労働者も考えてごらんよ、大手に就職したら、人間らしくない生活になっているじゃないか。マイホームを持つことが目標になてって・・・というようにする。

「大手VS中間層&労働者」とするためには、労働者側に中間層が寄っていき、そこに対立構造・緊張関係をなくし、大手よりも出身地の中小企業という志向にもっていきたいとなってきます。

こうすることで、中間層の社会的な存在意義が出て、中間層自身の立場を維持できる。中間層が「家業」であれば、なおさらです

社会主義との親和性

「労働者のため」「VS大資本」というお題目ができると、社会主義思想との親和性が出てきます。

大資本では、「自由主義で使い捨て」、一方で「使い捨てするな!」とするわけですし、労働条件の改善を大資本優遇政策だけではだめだ!とするので、「平等で公正な社会」ということを強調することになってきます。

さらに「労働者からの搾取」だけではなく「中小企業からの搾取」ということもあるとも(大手の下請けゆえに、大手から搾取されていると)。

社会主義的な発想であれば、資本家に対しての労働者階級の組織化、そして政治的な運動とともに、中間層の組織化そして運動を行っていくという流れにも持っていきやすいわけです。労働者と中間層は仲間だもん!パートナーだもん!と位置付けることで。

社会主義、共産主義には流れずに

しかし、中間層が「社会主義」や「共産主義」ということに流れることに問題が出てくるわけです。

資本主義、自由主義を基礎として、自分たちの会社が成り立っているから。そして、「労働者と使用者」という社会的関係性は失われていないため、労働者からすれば「資本家VS労働者」なわけです。

要は、中間層の立ち位置が、微妙になってくるのです。建前と現実の調整をどうするのか?ということです。

もちろん、中間層が、社会主義、共産主義へと志向していくという道もあったかもしれません。しかし、その道を選べなかったか、選ばなかった理由があるはず。やはり、資本家であり共産主義となると、その矛盾が生じるからです。いうならば、家業は手放せない。

そこで、社会主義的なイデオロギーを隠すか、それとも新たな見解を出すか?これが、労使紛争がイデオロギー対立の中で行われていた時代には、1つの道として必要だったのかもしれません。

ただ問題は思想的なことよりも、都市への流出による過疎化、人手不足の流れです。この流れは、止めることはできず、今に至っているわけです。

次回に続く

中間層の主義主張の一つを考えてみました。しかし、その主義主張は、「地方」の問題背景があるわけです。一方で、都市部ではどうか?ここでの主義主張がそのまま広がりを見せたというわけではなさそうです。

都市部でも「自由主義」「資本主義」そして「個人主義」との関係もでてきそうです。

次回は、都市部の中でも「神奈川」に焦点を当てて考えてみたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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