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現実から解き放たれたフォルムと色彩

ポーラ美術館で初めてアンリ・マティスの「リュート」を見た時、正直その良さは分からなかった。パースを無視したダイナミックな線と、大胆に置かれた強烈な色彩に、私は戸惑いさえも覚えた。なんて自由すぎるのかと。自由すぎて脳が追いつかない。でも決して複雑なことはしておらず、むしろ簡略化されたその絵になぜか心が引っ張られる。美術館を見終わったあと、気になって調べたくらいだ。だけど当時の私は、その絵に引っ張られている理由が自分でも説明できないままだった。



あれから月日が流れ、私はよりコンスタントに絵を描くようになり、美術館へもよく足を運ぶようになった。そんなある日、再び目に飛び込んできたマティスの展覧会。これは絶対に行かなければ!今の自分なら、あの時の戸惑いの答え合わせができる気がする。私は5ヶ月先の開催日を今か今かと待ちわびた。

そして迎えた国立新美術館で開催の「マティス 自由なフォルム」展覧会。ここではフォーヴィスムの時代へ向かう前の油彩画や点描風の絵画、さらには彫刻や版画、衣装デザイン、壁画、テキスタイルなど、様々な手法で表現された作品を見ることができた。こんなにも色んなことをやっているとは知らず、年々簡素化されていく描写からは、定められたフォルムからの脱却方法を探しているようだった。もっと自由に、もっと大胆にと。



見たものを見たまま再現するのは、反復練習さえすればそれほど難しくはない。だけど、見えているもののさらに奥にある真髄を見ることは、大人になるに連れてだんだんと難しくなっていくと感じる。長く生きれば生きるほどこの世界の形を認識し、それぞれには仕組みや基準があることを知り、その通りに真似てやってみたり、型にはめてみたりするだろう。そして、一度見えてしまったものを見えないようにすることはできないように、何も知らない子供が描くようないびつで、不規則で、整合性のないものを生み出せたとしても修正せずにはいられなくなるのだ。整えることより整えないこと、完全であるより不完全であること、伝えることより伝えないことの方が難しい。



人は記憶喪失にでもならない限り、何も知らなかった頃に戻ることはできない。だから、一度知ってしまった世界の中でもいかに新しい発見をし続けられるかが表現者としては重要で、それが作品を通して他者にも伝わったりする。こんな世界があるのかと。マティスはその大胆な筆使いから、制限された世界の中でも自由の探求をし続けていたように見える。どこか懐かしさや親近感を抱いたのも、自分自身が何にも縛られない自由だった頃を思い出させられたからかもしれない。マティスはそんな自分を解き放ってくれるような開放感や、爽快感がある。



色彩の魔術師と呼ばれるほど、豊かで鮮やかな色使いも特徴的で、マティスの目にはどんな世界が映し出されていたのかが気になる。普通に見ていても見えない色合いだけれど、確かにマティスにはそのように映っていたのだ。表裏のないストレートで強烈な色にも関わらず、軽やかさや多幸感があるのは、マティスが色彩を現実から解放したと言われる所以だろう。フォルムと色彩の両方から解放されたマティスが最後に辿り着いた切り絵や、ロザリオ礼拝堂のデザインは洗練されていて、もうこれ以上削ぎ落とすものはないと言っても過言ではない。まさしく芸術人生の集大成だった。



完璧がついに達成されるのは、何も加えるものがなくなった時ではなく、何も削るものがなくなった時である。
Perfection is achieved not when there is nothing left to add, but when there is nothing left to take away.

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ


私も加えるばかりで、そこにあるものを見ようとしていなかった時期がある。もちろん幅を広げるためにも加える時期は必要だけれど、本当に伝わる時はいつだってシンプルだ。晩年に大病を患ったマティスが、できない自分に何かを無理やり加えるのではなく、今の自分にできることを見ようとしたからこそ生み出された切り絵という新たな表現手法だったのではないかと思う。

自分から何かを加えるのをやめてみると、不思議と違うものが見えたりするから面白い。なにも無理やり付け加えなくたって、すぐ目の前にあったじゃないかって。ポーラ美術館で初めてマティスを見た時よりシンプルになった私の目には、何かから解き放たれたようにより鮮やかに、軽やかに、自由に広がるマティスの世界が映し出されていた。

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