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某牛丼チェーン店で感じた強烈な違和感。「お客さん」であることのさみしさについて。

23時過ぎ。仕事と打ち合わせを終えて、家に帰る。いや、少し腹が減ったな。最寄り駅の近くで牛丼でも食べて帰るか。

僕が暮らすエリアは繁華街ではない。夜になるとほとんどの店が閉まっていてかなり暗く、人もほとんど歩いていない。唯一、ショッピングモールの一階にあるその牛丼チェーン店とラーメン屋だけが開いている。

「え、この時間でこんなにいるんか」

あと1時間で日が変わるのにも関わらず、店内はかなり賑わっていた。テイクアウトを待つ客が3組、テーブルに座る団体客が2組、カウンターに座る客が5人。それと僕。

いや、でもこの時間は、と思ってキッチンに目を遣ると店員さんは一人。完全にワンオペだ。そりゃそうか。そんなにお客さんって来ないよな、この時間に。そう思いながら、読みかけていた本を取り出して読みはじめる。

店員さんが僕の手元にある食券を取りに来てくれたのは、座ってから5分後くらいだっただろうか。忙しそうに振る舞う中年のその女性は「お待たせして申し訳ありません」と言った。僕は「いえいえ、ゆっくりで大丈夫ですので」と返した。

少しずつオーダーの品がテーブルやカウンターに届いていく。

テイクアウトで何種類もの牛丼を持ち帰っている客がいた。友達らと食べるのだろうか。高齢の夫婦の客もいた。なるほど、こういう時間に牛丼を食べたりするんだな。待たされていると感じている客が何度か厨房を覗いて「まだですか?」とイライラして声をかける場面もあった。店員さんは「はい!急いでつくりますので。すみません、少々お待ちください」と返すしかなさそうだ。少し調理に時間がかかりそうなオーダーをしているようだった。黙ってカウンターに座り続けているサラリーマン風の客もいた。彼は10分以上オーダーを聞かれていないんじゃないだろうか。いずれにせよ、いろんな人がいた。

それでも、ぼくは黙って本を読んでいた。

店に入って20分後くらいだっただろうか。注文した牛丼が出てきた。普段であれば1分も経たずに出てくる商品だ。だからと言って僕は店員さんに詰め寄ろうとは思わない。

忙しいのに自分がいて邪魔になるのもアレだし、なるべく早く掻き込んで店を後にしようとした。あ、まだ水を出してもらっていない。でも忙しそうだし、まあいいか。

まだ、客足は途切れていなかった。


僕は強烈な違和感とさみしさを感じながら、帰路に着いた。そして、思った。

「あの場にはいろんな人がいたけれど、『お客さん』と『お店の人』しかいなかったんだな」と。

きっと、友達のお店だったらなにかできることでお手伝いをしていただろうと思った。いや、それだけじゃないかもしれない。お客さんにも少し声をかけて手伝ってもらうとか、お客さんと雑談をしてみるとか、そういうことをしていたように思う。そしてできることならば、あの場でもそうした振る舞いをしたかった。けれど、そうすることは自分にとってはなかなか難しかった。

あんなに冷めきった空気の中で一人だけが黙々と作業をし、動き続け、他の大多数はなにもせずにただ待っているだけという光景を、わたしたちは本当に心から求めているのだろうか。

そこになんの違和感も、悲しさも、苦しさも見出せないようになってしまうほどに、わたしたちは自分の心の声を殺してしまっているのだろうか。役割は役割であるために、是が非でもまっとうしなければならないと思っているのだろうか。

お客さんという役割と、お店の人という役割。

お客さんは価値を生み出すプロセスに基本的に加担・介入することはできない。なぜなら彼らは「お客さん」だからである。提供される価値の対価としてお金を支払っている存在だからである。価値を生み出すプロセスに介入・参加してしまうと「等価交換」が成立しなくなるのだ。

どこかで見たコントでこんなネタがあった。レストランに入った客が注文を聞かれて「オムライスで」と言ったところ、「ではキッチンはあちらですので(自分でつくってね)」と店員に言われるというものだ(コントの内容は微妙に間違っているかもしれない。記憶が曖昧です)。そこで笑いが生まれるわけだが、基本的にそのようなことはありえない。レストランは価値として料理と空間(雰囲気)とサービスを提供しているからだ。そして、その対価としてお客さんは等価のお金を支払っている。なので、自分で勝手につくってねはありえない(もちろん、バーベキュー場やシェアキッチンなどは別の価値を提供しているので、今回の話とは異なる)。

お客さんから「一緒につくりましょう!」「お手伝いしますよ!」というコミュニケーションが発生することはなかなかない。基本的に発生するコミュニケーションは「クレーム」だ(たまにご意見や提案もあるが)。僕はここにお客さんであることのさみしさを感じてしまう。それは、クレーム(それはほぼ文句とボヤキと言われるものだ)以外に、自分には世界や社会、目の前の状況を変える術を持たないということの自覚である。この気づきはさみしいものだろうと思う。

社会が「お客さん化」を進めた結果(それは「経済成長」と表裏一体のことでもあるが)、18歳の若者で「自分で国や社会を変えられると思う」のは5人に1人になってしまっているという調査結果もある。それは、他国と比べてもかなり低い数値だ。

◯日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」(9カ国調査)
https://www.nippon-foundation.or.jp/who/news/pr/2019/20191130-38555.html

お客さんであり続けるということは、自分はつくる側に回ることはできないという「無気力化メッセージ」を常に自分自身に投げかけ続けるということなのではないか。

僕が感じたあのさみしさは、役割を超えて関わることができないという絶望であり、サービスの受益者に留め置かれるという自分の能力と存在の否定に由来するのではないだろうか。

そして、その受益者は「代替可能」な存在でもある(支払い能力さえあれば誰でもよいのだから)。これらの要素が複雑に絡み合う中で、わたしたちの自尊感情やプライドが剥ぎ取られていくのではないか。

このような状況だと、きっとお客さんもお店の人も疲れてしまうんだと思う(そうして、実際にみんな疲れてしまっているのではないか)。僕は、この構造的誤謬をどう修正していくのか、アップデートしていくのかということにさまざまな活動を通じてチャレンジしているつもりであるし、これからももっと考えていくつもりだ。

結局そのチャレンジが、個々人の生きる力(クリエイティビティ)やネットワークを強め、それぞれの人生を楽しくまっとうしていくことにつながっていくのだろうと思う。ゆえに、どのようにして「お客さん」という役割とうまく付き合うのかは、現代において非常に大きなテーマであり、問いかけであると思っている。

もう一つ、みなさんと共有しておきたいことがある。それは、人間には「仲間(友達)スイッチ」と「お客さんスイッチ」があるということだ。

「俺はお客さんだぞ」と思ってしまった瞬間に「してもらって当然」という態度が現れる。お金を払っているんだから楽しませてもらって当然、価値提供してもらって当然、丁重に対応してもらって当然。

確かにその通りな部分もある。お店の人(供給側)としてその「ニーズ」に答えていくことは重要だと思うし、それがビジネスをするということであると思う。けれど、上で見たように極度にお客さん化するということは、どこかしらでその本人自身の自己否定にもつながっていくのだと思う。

僕などはまだまだ勉強が足りなくて「ポスト資本主義」と言われていることが自分の中で明確に理解されているわけではない。けれどもさまざまな活動を通じて「脱お客さん化(それは、分断をつないでいくということとも関連している)」についての重要性や価値については、少しずつ理解が深まってきた。今の僕としてはこのアプローチが少しずつ社会を楽しくしていくかもしれない、と思っている。

だから、僕はみなさんの「仲間(友達)スイッチ」を押したいなあと思っているんです。藤本さん、わたし(たち)のためにどんなことをしてくれるんですか?ではなくて(あんまりそんな人はこれまでいなかったけれど)、藤本(あるいはここにある)と一緒になにができるだろうと考えてもらいたいと思っているし、僕もそれぞれのみなさんと一緒になにができるのか、どのようなことならご一緒できるのか、そしてそれが社会にどんな影響を与えうるのか、ということを考えていきたいなと思っています。仕事じゃなくて、遊びでもいいんです。遊びはとっても大事だから。僕にとっては「遊びの仕事化」も同じく重要なテーマです。それは、好きなことして稼ぎましょう!みたいな話ではなくて、もっと別の視点の話。文章も多くなっているので、そのことについてはまた別の記事でお話しできればと思います。

今年はコロナもあって、思うようにいかなかった一年だったと思います。これはぼくもみなさんも同じであっただろうと。その中でも新しいチャレンジや出会いがあったことは、僕にとっても非常に価値のあることでした。でも、自分の中でもっとも価値があったのはこれまで自分がやってきたこと(「場づくり」)の意味や価値を、熟考して言語化できたことではないかなと思っています。

・自分はどういう歴史的経緯の中で「場づくり」をやっているんだろう?
・それはいかなる(社会的)課題感の元に行われていることなんだろう?そして、自分はどのような社会や人の生き方を目指しているのだろう?
・自分が決して譲らない意思決定の軸(判断軸)はなんだろう?

などなど、いろんなことを考える機会をいただいたように思っています。この一年、僕に関わっていただきながら、一緒に対話をしたみなさんのおかげだと思っています(オンラインでもとっても深い対話ができたように思っています)。本当にありがとうございました。

またぜひ来年も一緒に遊んだり、対話したり、仕事したりできればと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします!^^

あ、初めて記事を読んでくださった方も、ぜひなにかの機会でお会いしましょう〜!

2020年、本当にありがとうございました。

最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。更新の頻度は不定期ですが、フォローなどいただけると大変うれしいです。