学校をつくるって、どんな感じだろう。軽井沢風越学園を見学してきました。

尼崎ではめったに見ることのできない雪。だけれど、不思議とそこまで寒さを感じることはなかった。

中軽井沢駅の前では、学生たちが雪遊びをしていた。

とある女子たちのグループに目をやると「ええっ!◯◯と◆◆って付き合ってるの!」という声が聞こえてきた。


今回、ぼくが「軽井沢風越学園」におじゃますることになったのは、ファシリーテーターとしての師匠である青木将幸さんが評議員として関わられるということをお聞きしたからだった。

彼に「以前から軽井沢風越学園に関心があったので、ぜひ一度遊びに行きたいです」とお願いし、先生たちの集まりに潜り込ま、いや参加させていただいたというのが今回の経緯だ。


「軽井沢風越学園」は、2020年4月に開校する幼稚園と義務教育学校からなる12年間の幼少中混在校。詳しくは以下のホームページを参照されたい。

https://kazakoshi.ed.jp

「じっくり ゆったり たっぷり まざって 遊ぶ 学ぶ 『 』になる」というコピーが象徴するように、関わる人(子ども)たちそれぞれのあり方や気持ちが尊重され、かつ、関わり合いや「実験」の中で、新しい気づきや学びが生まれるような場ができていくのだろう、とそんなことをふんわり思いながら参加した。

なんとなくだけど、自分が尼崎をベースにやってきたこと、やっていることとつながるような感じがしていた。その感覚もあって、見に行きたいと思っていた。


4月の開校まであと2ヶ月半ということもあって、現場では急ピッチで準備が進められていた。いろいろな地域で先生としてさまざまな取り組みをされてきた方々が、喧々諤々の議論をしていた。

学校をゼロからつくる、というきっとほとんど誰もがしたことのない経験をしていた。だからこその不安や心配もありながら、だけれどそれでも前向きに、かつ熱心に自分たちの思う学校をつくりあげていこうとする空気感に場が包まれていた。


印象的だったことがある。

ぼくはみなさんと初めましてだったので、自己紹介のときに「『りょうちゃん』って呼んでください」と言った。そうしたら、話しかけられるたびに、みんながひとこと目から「りょうちゃん」と呼んでくれた。あだ名で呼び合いましょう、みたいなことはよくあるけれど、照れがあったりして名字で呼んでしまうことも、またよくある。それは、はじめましてだから仕方ない。でも、風越学園にいたみなさんはそうではなかった。突然の来訪者であるぼくのことを、やわらかく受け止めてくれていた。

そのとき、ああ、こういう場をつくる人たちなんだな、とぼくは思った。そしてほっこりした。


部外者だけれど、これからとっても楽しみな学校。ぼくも、小さな力でしかないけれど、なにかのお役に立ちたいなあ、と思いました。

また、みなさんとあそびたいな。


《みなさんと一緒にいて抱いた問い/気づき》
「学び」そのものではなく、「学び方」というものは、どうやって獲得していくのだろう。そして、ぼく自身もどのようにして獲得してきたのだろう。
なにが起こるかわからないからワクワクして楽しめることもあるし、わからないことはわからないがゆえに怖く感じることもある。他方、わかっているからこそ安心して楽しむことができることもあるし、わかっていると面白くないこともある。個々人にあった「あそび」や「まなび」を創出することはとっても難しいことだなあ。
枠がないとなにからやればいいのかわからなくなることもあるし、制限を取り払うことで主体的に取り組むことができることもある。枠がある中でもその枠の設定が適切であるがゆえに深まっていく場合もあるし、枠が強すぎて主体性を奪ってしまうこともある。上の点と同じく、これもバランスがとっても難しいなあ。自分は、どこまで意識的にこのことをプロジェクトに組み込んでやれているだろうか。
・なんでもチャレンジできること(またなんでも楽しめること)はよいことだと思うけれど、そうではない人もいる。チャレンジを踏みとどまることに対して否定的にならず、そのことを一緒に見守ったり、ときにはチャレンジしないことが賞賛されたりするような場や環境はどのようにしてデザインすることができるか。ポジティブな力学が働く場において、ネガティブな声は常にかき消されやすいかもしれない。
意味は提供者の想定を超えて見いだすことができる。芸術作品や小説を作者以上に意味づけるように。自分で再定義/再発見を行うこと。それが、学ぶということなのかもしれない。

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